キリスト教の問題点について考える

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畑に隠された宝の譬え

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allenbrowne.blog

残念なことですが、今回のような話題を記事にするとアクセス数が伸びません。つまらないからでしょう。福音書には、キリスト教徒であることのメリットと非キリスト教徒であることのデメリット、どうすれば簡単に天国行きの切符を手に入れることができるか、それから、今所属している教派が正しくて、敵対する教派が間違いであることの証拠が記述されている、そういうものだ、と考えている人がほとんどのように感じますが、そうではありません。福音書には、ただ、ものとこだわりを捨てなさい、というつまらない勧めが繰り返し述べられているばかりです。

アクセス数が、などと言っている、これが「こだわり」のサンプルなのかもしれないのですが(笑)。さて、

 

マタイの福音書 19:21-22

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

は、その最もわかりやすい箇所の一つですが、今回取り上げるマタイ13章にあるたとえ話も同様です。

マタイの福音書 13:44

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。 

「隠してある宝」とは、福音書を読んでわかったこと、財産やこだわり、いろいろな欲望に身を任せている限り真実には到達することができない、という世の中の真理のことです。それこそが至上の宝なのであって、我々はその宝を手に入れるために、財産を捨て、世俗の欲望から自らを解放しなくてはならない、というお話ですね。

マタイの福音書 13:45-46

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。 

金儲けに喩えることに違和感がありますが、日本人の国民性にはそぐわない表現かもしれません。この箇所も同様に、財産に縛られていては真理を知ることはできませんよ。知りたいのであればすべて捨ててしまいなさい、という提言です。

マタイの福音書 13:47-50

また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 

この節には、わかりにくいですが二重の意味が含まれていると思います。押韻かもしれません。一つめの意味は、自分自身で、今まで習得したいろいろな価値観から、真理へ至る道を示すものとそうでないものを選り分けて、留めるべきものと捨てるべきものを決めなさい、ということで、他の一つは、正しく選ぶことができないものには、もはや真理を体得する機会は与えられない、ということです。

いかがでしょうか、福音書が主張していること、その第一の主題は、実はこのような地味なことなのです。物事には始まりがあるように終わりがある。だから美しいのです。人は死ねば終わりです。だからこそ、どのように生きればよいのか、どのような死を迎えればよいのか、と考える、ということ、それが「福音」だということです。