マタイによる福音書の25章には「タラントの喩え」と呼ばれる一節があります。タラントは、現在の価値に換えればおよそ六千万円になるのだそうですが、同じマタイによる福音書の18章には一万タラント、という金額があって、こちらは六千億円ということになります。相当大掛かりな土木工事でもしなければそのような金額にはなかなかならないように思いますが、このような表現は「膨大な量」をさらに誇張するために記された、象徴的表現、ととらえればよいのではないかと思います。
タラントの喩えを見てみましょう。
マタイによる福音書 25:14-30
また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
タラントで喩えられる膨大なものとは、イエス様が裕福な青年に示された「余計なものをすべて捨て去った後、真の幸福である神の国を知ることができるのだ」という教えのことです。マタイの福音書 19:16-22を見てみましょう
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
タラントの喩えの中で、原資を殖やすことができたものとは、この教えを正しく理解し、また実践し、伝え、他の人と価値観を共有することができるようになった人のことです。つまり、神の国はその到来を待っているようなものなのではなく、自分自身のちからでもって、努力して作り上げて行くものであることを知っている人であるわけです。
一方、殖やすことができなかったものとは、託されたものの価値を理解できないもののことです。福音書を読んで得た結論が、神の国とは死後に与えられる報奨だろう、と達観し、してはいけないことをしなければそれでいいだろう、と言って、結局何もしない人々のことです。
もうおわかりでしょう。一タラントの預託を得て一タラント返すものとは、「キリスト教徒」のことなのです。『善きもの』を善き、善き、と唱えて奉りながら陳腐で無意味な飾り物に堕落せしめてしまう、そのことをイエス様はすでに予知していたのかもしれません。