キリスト教の問題点について考える

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「主の変容」の真実

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マタイの福音書から「主の変容」と言われている出来事を読んでみましょう。

マタイの福音書 17:1-7

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。 

この箇所について、よく聞く説教としては、イエス様がモーセとエリヤとともに弟子たちに威容をお示しになったのは、ご自身が神であることを示すためであった、というものではないかと思います。すなわち、実際の出来事をそのまま叙述しているのだ、という考えです。

しかし、このブログではいつも説明申し上げているように、福音書は二重の譬え話で構成されているのであって、事実がそのまま叙せられているところは無い、と言っても間違いではないでしょう。この箇所も同様です。

ここで、モーセは「律法」をエリヤは「預言」を表していますが、その二人と語り合っている、という表現から、イエス様自身が、律法そのものであり、預言そのものでもある、ということを表現しているということがわかります。イエス様という存在に、正義を象徴させているのだ、と説明しているわけです。

また、白い雲は、出エジプト記の次の記述から、「神の臨在」を象徴的に示す符牒として使われる常套表現です。見てみましょう

出エジプト記 40:34-38

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。

 「雲」とは、エジプトを脱出するイスラエルの群れの目印となるように、大きな火壷で燃やされた獣脂から立ち上る「煙」のことです。この白い煙はイスラエルを導く神そのもののようである、というところから、「白雲」や「密雲」はイスラエルの神、またその臨在を象徴するようになって、福音書のこの箇所にも応用されている、ということなのです。

今日、カトリック教会や正教会で香炉で香を焚いて白い煙を発するのはこのことを思い起こして「神の臨在」の意味を知るためでもあります。旧約聖書で、その年の大祭司が年に一度、香炉に香を薫じて至聖所を白い煙で満たすことも同じです。「白雲」が神の臨在を象徴しているからです。

聖書には暗喩や暗号が溢れている、と考えているひとが たくさんいるように感じますが、暗喩、暗号ではなくて「象徴的表現」と言ったほうが正しいでしょう。

この箇所は、イエス様が説明されるいろいろな事柄は、預言であり、律法であり、神に等しい正義でもある、ということを象徴的に表現しているのです。

「神に等しい正義」については過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で説明していますので参考になさってください。

では、イエス様は福音書で何を説明しているのか、それはズバリ、「ものを捨てろ」ということです。ブログを通して何度も説明している通りなのです。

福音書を読む人は、キリスト教徒になって得られるところの特典であったり、非キリスト教徒よりも優れている点であったり、それ故に評価される事柄、などを読み取りたがります。そうして、そのような解釈をよく目や耳にしますが、実際にはそんなことは一言も書かれてはいません。ただ、捨てろ、と指導されているばかりです。

同じマタイの福音書から少し確認してみましょう。

マタイの福音書 6:25

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 

マタイの福音書 10:37

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 

マタイの福音書 19:21

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 

マタイの福音書 19:29-30

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

まだまだたくさんあります。たくさんというよりは、福音書はそのことだけをひたすらに主張しているのです。人は、ものを捨てれば幸福になれる、ものを捨てるとはどういうことなのか、そのことを教えているわけです。

変容したのはイエス様ではなくて、福音書を読んでいるあなた方がこれから変容しなければいけないのだよ、と語りかけているわけです。