キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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キリスト教徒が抱いている幻想

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福音書には、神がキリスト教徒へ与える特典内容の予言、と理解されているところの記述がいくいつかあります。見てみましょう。たとえば、

マタイの福音書 6:26-30

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

キリスト教徒はこの箇所を読んで、神は野草や野鳥にさえ無労働で生きていることを許しているのだから、キリスト教徒にはさらなる大きな特典を与えようとしているに違いない、と解釈したがるようです。それは少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも、イエス様の教えに従えば、苦難が減免される、ということの約束だろう、という程度には理解しているでしょう。

たしかにそうかもしれません。しかし、そうなるべき条件は、キリスト教徒になることではなくて、福音書の同じ箇所の、少し前に示されています。読んでみましょう。

マタイの福音書 6:19-21

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。

つまり、余計なものを持つと、それらを保護することに気を取られて、人として生きていることの大切な意味を見失ってしまいますよ、という警告であり、マタイの福音書6:25の「それだから、あなた方に言っておく」によって、空の鳥と野の花のたとえにつながっているわけです。

また次の箇所、マタイの福音書 11:28-30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

も、優美な含みを持つ入信への誘い、と受け取れるかも知れないのですが、この箇所も、重荷を下ろすのは、負っているあなた方自身なのだよ、と指摘しているに過ぎません。そうすれば見るべきものが見えてくるだろう、と教えているのです。「わたしのくびき、わたしの荷」とは、「持ち物を捨ててしまう」という行動のことでしょう。

また、天国とは、キリスト教徒が死後に得られる報奨なのでしょうか、マタイによる福音書 13:45 には、

また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。

とあります。持ち物を売り払って買うべき、真珠、とは何のことでしょうか。

マタイによる福音書 19:20-22 には、

この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

とあって、「貧しい人々に施す」ことだということを知ることができます。

お釈迦様は、煩悩を捨てて悟りを得、この世を極楽浄土にしよう、と教えられました。同様に、イエス様も、余計な持ち物を捨てて、この地上に神の国を実現しよう、と教えられたのです。

洗礼を受けてキリスト教徒というタイトルを身に着けた、と安心しているキリスト教徒の皆さん、それは儚い幻想に過ぎません。実際には、「余計な持ち物」を一つ増やしただけのことです。