キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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カトリックとプロテスタントの違い

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カトリックプロテスタントはどう違うのか、と言いますと、カトリックの神父さんは終生独身でプロテスタントの牧師は妻帯可能である、とか、カトリックの聖堂にはマリヤ様など聖人の像があるけれどもプロテスタントの礼拝堂には無い、といったような、外見上の差異が問題にされる場合が多いのではないかと思いますが、もっと根本的な、信仰生活の根幹を成す次元に於いて、両者がどのように違うのかを考えてみますと、

「人が救いにあずかるために」

カトリックは「教会は必要なものである」と考えますが、

プロテスタントは「教会が必要ではない」と考えます。

と言えるでしょう。

カトリックは「教会の権能」を重要視し、七つのサクラメントを定めて、それらは人間が生活していくために必要なものである、と考えています。たとえば洗礼について、「カトリック要理の友 第23課 洗礼」では

洗礼は救いを得るのに必要ですか。
イエズス・キリストのお定めにより、洗礼は、救いを得るのに必要です。
 イエズス・キリストは人の罪をゆるし、成聖の恩恵を与えるために洗礼の秘跡をお定めになりました。それゆえに人がカトリック信者となるためには、洗礼の秘跡を受けなければなりません。

と説明されています。

一方プロテスタント教会は、一切の「教会の権能」を否定し、サクラメントは洗礼と聖餐の二つを保存しますが、それらは生活のための必要であるとは理解していません。例えば「日本バプテスト教会連合公式ページ 聖礼典」では

私たちは、バプテスマはあかしとして、聖餐は記念として行う。もちろん、パブテスマは霊的な死と再生という出来事の象徴的な意味があり(ローマ6:1?11)、告白としての意味もあるが、基本的にはあかしとしての意味があるということができよう。聖餐にもあかしとしての意味もあるが、基本的には記念として行われるのである(第一コリント11:25、26)。

と説明されているように、洗礼は「あかし」のために、聖餐は「記念」のために行うものであって、人間として生活するために必要なものでは無い、と考えていることがわかります。別のプロテスタント教会によっては、この「あかし」とか「記念」とかいった理解部分が「神の恵み」という理解に代わる場合がありますが、いずれにせよ、生活に必要不可欠な要素であると考えてはいない、という点においては同じです。

ですので、「フリー聖餐」というような考えが生じることは、サクラメントを人生の必須事項とは捉えていないプロテスタント教会では論理上あり得ることだ、と言えるでしょう。

実際、「救世軍」はメソジスト教会から派生したプロテスタント教会の一つですが、彼らは洗礼も聖餐も行いません。また、無教会主義の人たちも同様です。彼らには教会もなく、サクラメントも行いませんが、だからといって、無教会主義の人たちはクリスチャンでは無い、とうわけではないのです。

カトリック正教会も同様ですが)とは、教会の権威に隷属し、教会や神父、司教無しにはキリスト教徒として成立し得ない人のことであり、プロテスタントとは、教会や牧師がいなくても、キリスト教徒として成立し得る人のことだ、となるでしょう。

別の言い方をするのであれば、カトリック信者になりたいときには、カトリック教会を訪れて入門講座を受講し、終了後洗礼を受けなければなりませんが、無教会主義のプロテスタント信者になろうとするのであれば、今直ぐにそのままでそうなれる、ということです。