キリスト教の問題点について考える

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なぜ「火と雲の柱」が神を象徴するのか

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St-Takla.org Coptic Orthodox Church Heritage より

出エジプト記には、火と雲の柱があらわれて、イスラエルの民を先導した、と記されています。読んでみましょう

フランシスコ会聖書研究所、出エジプト記 13:21-22

ヤーウェはかれらの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるように、昼は雲の柱をもってかれらを導き、夜は火の柱をもってかれらに光りを与えられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

フランシスコ会聖書研究所の出エジプト記には、同箇所の注釈として次のように記されています。

「雲の柱」と「火の柱」をつくるために神が用いた天然の要素は、軍団の先頭の火つぼから出る煙や火による信号であろう。雲と火はまもなくヤーウェの保護と栄光の象徴となるが、各伝承においてそれぞれの特色をわずかに異にする(14:20,24,19:16-17,24:16,40:34-38、民9:15-23、申1:33参照、なおネヘミヤ9:19、詩78[77]:14,105[104]:39、知10:17,18:3,19:7、イザヤ4:5、一コリント10:3も参照)。

注釈にもあるように、この出来事の記述により、これ以降の聖書には「雲」といえば「神の臨在」を表す、という常識が定着しています。たとえば、

詩篇 68:4

神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
その名は主、そのみ前に喜び踊れ。

 詩篇 78:14

昼は雲をもって彼らを導き、
夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。

イザヤ書 4:5-6

その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

 マタイによる福音 17:5

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

 

子供の頃、豊中の親戚の家に泊りがけであそびに行ったとき、突然「ゴーッ」という大きな音が聞こえてきますので、驚いていますと親が、「ほら、早く寝ないから地獄から鬼が迎えに来たんだよ」などと言って脅かすのです、後になってあれは伊丹の空港を離着陸する飛行機の音だったと判るのですが、当時は本当に恐ろしく思ったことを覚えています。

 

出エジプトの煙と炎についても、先頭の火つぼの周囲にいる人々にとっては、その火と煙の正体が何かはよくわかっていたのでしょうが、後方の火つぼが見えない人々には、煙と炎だけしか見えないので、子どもたちが、あれは何?と親に問うたとき、親は「あれが神様なんだよ。ああして私達を導いて下さっているのだ」と答えたかも知れません。また先頭から何キロも後方にいて正確な情報に恵まれ難いグループでは、大人たちでさえ、あの白い煙と炎は神ご自身である、と認識していたかもしれません。

いかがでしょうか、流行的な言い方をすれば、こうやって神の姿は「盛られていった」のでしょう。実際の神は、行政の道具として発生し、必要に応じてその姿を変えていったのだというわけです。

しかし、聖書は製品マニュアルとはちがいますので、実生活への応用方法、思想の理解のしかたまでは細かく説明されていません。

たとえば、出エジプト記の上記箇所であれば、つぎのように脳内で変換しながら読めば、比較的正確な理解を得ることができるのではないでしょうか。

イスラエル臨時政府の、出エジプト庁長官は、移動する国民の先頭で、彼ら国民が昼も夜も進むことができるように、昼は火つぼの煙で、夜は燃え盛る炎でかれらに信号を与えた。それは、昼は雲の柱、夜は火の柱のように見えて、国民を導いた。