キリスト教の問題点について考える

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最後の晩餐に託された意味

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聖餐式」をご存知でしょうか。カトリック教会では毎日、ミサ中において「聖体拝領」として、正教会では主日聖体礼儀中において「領聖」として、聖公会やルーテル、その他のプロテスタント教会では、主日毎、月一回、年一回など、それぞれ定められた周期ごとの礼拝式中において「聖餐式」として、パンを食べ、葡萄酒をのむことによって、福音書でイエス様が指示されたことを守っています。福音書の該当箇所を読んでみましょう。

ルカ福音書 22:19-20

またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。 

 

今はもう亡くなってしまったのですが、無教会主義のご老人の知り合いがいました。毎週数人の賛同者と共に、ご自宅で主日の礼拝を守っておられました。

僕も招かれて、何度かその質素な礼拝を共にさせていただいたのですが、聖餐式も行われるのですか、とお伺いしたことがあります。ご老人は、はい、行いますよ、と答えられました。年に一度、復活祭のころに聖餐式を行います、とのことでした。

なぜ行うのですか、と食い下がってお伺いしてみたのですが、それは、福音書で「記念のためにこれを行え」と書いてあるからだ、というお答えでした。

正直で明快なお答え、と言うことができるでしょう。聖餐のパンと葡萄酒については、実体変化、臨在、共存、象徴など、教派によって理解の細部に差はあるものの、その本質を情緒的な叙述を抜きにしては説明することはできないでしょう。何ら、身体的な作用は及ぼさないでしょうし、知識も増加しませんし、知能が向上することもありません。さて、これは何のための行為なのですか、という問いに分かりやすく、こうだ、と答えられる教会の指導者は存在するでしょうか、おそらくは存在しないでしょう。存在すれば、その説明によって、多くの人がその必要性を認識し、納得してキリスト教徒になっているはずですよね。

では、この最後の晩餐におけるイエス様の発言には、結局どのような意味が含まれているのでしょうか。

僕はこう思います。イエス様が荒れ野での修行を終え、洗礼を受けてからこの晩餐までの間に説明したいろいろなこと、特に「一切の所有物を放棄して、それから私についてきなさい」という勧め、この意味をよく考えなさい、ということなのではないでしょうか。発言の表面を切りだし、その文字通りを墨守して「従っている」と嘯くような愚か者になってはいけない。それらの教えの意味をよくかみしめて、まるであなた方自身の考えであったかのように新しい生命を吹き込ませなければいけない。そういう思いが「パンを食べ、葡萄酒を飲む」という行為に込められているのではないかということです。

今日「ユダヤ教」と呼ばれるもの、特にイエス様の時代においてのそれは、単なる一つの宗教ではありませんでした。国家であり、法であり、政治でもあったわけです。イエス様が福音書で批判し、改善しようとしていることは、宗教としてのそれではなくて、政治とそれが顕わす生活の実情であったわけです。宗教に振り回されて現実の生活の質が低下するようではいけませんよ、ということを主張された、ということですね。それで、もう、国体の象徴である神を「主(アドナイ)」と呼ぶのはやめよう、「父(アバ)」と呼ぼうではないか、として自ら体現されたわけです。

「ご聖体」を立ったまま手でいただくか、跪いて口でいただくか、どちらが正しいのか、なんていう疑問が、いかに不必要かつ滑稽であるかということがわかるでしょう。イエス様がそんなことはするな、と戒められているのに、堂々とそれを行っているわけです。果たして人間の行うことは、このようなことでありがちなのです。