キリスト教の問題点について考える

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「天国で一番偉いもの」とは

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福音書には、弟子たちが「我々のうちで一番偉いものは誰か」ということに関心を持っていたことが記録されています。見てみましょう。

マタイの福音書 18:1-3

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 

 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書全てに記されているエピソードなのですが、「天国では」という条件が示されているのはマタイだけのようです。

この箇所には、説明のためにこどもが引き合いに出されているせいか、日曜学校でもよく話題にされる箇所ではないかと思いますが、僕は不思議に感じたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか、

天国が、人が死んだあと神の裁量によって行き着く、その人の魂の落ち着き先であるとするならば、その場所で、誰が偉いとかその次だとかいう考えは、とてつもなくトンチンカンなことなのではないでしょうか。神様が一番偉いに決まってますよね。いくら弟子たちが未熟だったとしても、そんなことがわからなかったとは思えません。

これ、実は簡単なことで、間違っているのは現代の読み手であるキリスト教徒のほうなのです。つまり、イエス様の言う「天国」は死後の世界のことなのではなくて、今生きているこの時代のこの世界に実現されるべき理想の社会のことだったのです。

そのことはイエス様に教えてもらっていた弟子たちも充分承知していたわけで、この世に実現するべき世界だからこそ、誰が偉いのか、という疑問がでてくるのです。彼らは封建社会しか知らなかったからです。

しかしいつの間にかキリスト教は「天国」を死後の世界のことにしてしまったのです。「死」という曖昧な、しかも誰にでも必ず訪れる恐怖を和らげるための文化としての位置に安定してしまったわけです。「宗教」になってしまった、ということです。