キリスト教の問題点について考える

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「エジプト王パロ」とは

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パロ(ファラオ)とは何のことでしょうか、Wikiの「ファラオ」から説明を引用してみましょう

古代エジプトの君主の称号〈君主号〉。神権皇帝。古代エジプト語の「ペル・アア」が語源である。旧約聖書では「パロ」(文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書)もしくは「ファラオ」(新共同訳聖書)という転写で登場。クルアーンでは「フィルアウン」として出てくる。

ペル・アアとは「大きな家」の意味であり、王宮そのものを表す言葉であったが、転じて王宮に住む者、つまり王を意味するようになった。

なお、1世紀頃のローマ帝国では「エジプトの『ファラオ』は初代の王の名前でこれを代々襲名している」という俗説があったらしく、ヨセフスはこれについて『ユダヤ古代誌』第VIII巻6章2節で「ファラオはエジプトの言葉で王や王権を意味する」、「即位前は各王は個人名がちゃんとあって即位後にファラオと呼ばれる」、「(初代王の襲名自体は珍しいことではなく)アレクサンドリアの王(プトレマイオス王朝のこと)も即位すれば初代同様プトレマイオスローマ皇帝も即位すればカエサルと呼ばれ元の名前では呼ばれなくなる。」と説明している。

 キャッチアイ画像を借用したサイトにも、

「ファラオ」とは、古代エジプトの統治者の称号で、日本語では「国王」「君主」を意味します。

と説明されていて、「ファラオ」が「エジプト王」を意味することばであることを知ることができます。

それでは次に、「川西聖書教会」という教会のサイトの、「説教出エジプト6章」という頁から少し読んでみましょう。

さて第二に知らなければならない事は「神様の御心は誰も理解出来ない」と言う事です。今日の箇所でも明白なように、語っているモーセ本人ですら自分の思っていた事と神様がなさる事が相違していたのでずいぶんと苦しみました。語られたエジプト王パロには絶対に許容出来ない事でした。

 「エジプト王パロ」という表現がありますね。次の箇所、

ですから実際に神様が御心を示されたこの時、語るモーセも聞いたエジプト王パロも当事者である神様が救おうとされたイスラエル民族も結局神様の御心を理解できなかったのです。

 にも「エジプト王パロ」とあります。

しかし、Wikiにあるように、「パロ(ファラオ)」は「エジプト王」を表しているのですから、この文章のように「エジプト王パロ」と言ってしまうと、その意味は「エジプト王エジプト王」ということになってしまいますよね。日本の天皇を、「ジャパニーズ エンペラー ミカド」と表現するようなものです。

この牧師さんは「パロ」が、出エジプト記中の当該記事当時のエジプト王の個人の名前だと理解しているのでしょう。

牧師だというからには、神学校で聖書やユダヤ教、オリエントや北アフリカの歴史などは学んでいるはずだと思いますが、「エジプト王パロ」なんていう変な表現をしてしまうのが実際のところだ、ということのようです。

しかし、ちょっとまてよ、と僕は思いました。

自慢するわけでは全く無いのですが、僕は中学、高校時代に、新旧約聖書を何度も通して読んでいます。早ければ1ヶ月で一回、遅くても2,3ヶ月で一回、6年間で数十回は読んだのではないかと思います。エレクトロニックのインフラが充実している現代の世の中にあって、あえて計算尺のカーソルと滑尺で三角関数を計算するような楽しさを感じていました。読むたびに新しいものを発見しましたし、何度読んでも古くならない精神性を学ぶことができたとも感じました。

しかし、そのようにして聖書から学び得た結果は想像以上に尊いものでした。「教会の教えている事柄と、聖書が語る実際とには大きな隔たりがある」という感覚がそれです。教会とは、聖書の精神性を伝える者ではなくて、聖書を利用して成立する産業なのだ、という事実を知ることができたわけです。

「真面目なキリスト教徒」として生きて行くためには、あまり聖書を読まないほうがいいでしょう。「エジプト王パロ」と言って違和感を感じない程度がちょうどいいということではないでしょうか(笑)。