キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

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罪の基準

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www.catholicnewsagency.com

 

デュポン神父の説教部屋第4回「私の罪は赦されますか?」

というサイトに、次のような記述があります。

キリスト教でいう「罪人」というのは、法律でいう「犯罪人」とは全く別の意味合いを含んでいます。犯罪というのが法律違反の行為で、社会に対して責任を問われるのに対して、キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。もちろん、場合によっては社会に対しても責任を問われることでしょう。

言葉尻を捕まえるようですが、この書き方だと、法律では裁かれる犯罪であっても、キリスト教としては罪では無い場合もある、と読めてしまいますね。

キリスト教と実社会に関連性は無く、それぞれ全く別のものだ、と言いたいのでしょう。それならキリスト教なんて社会では何の役にも立たないどころか、公序良俗に反する不清潔な思想だ、ということになってしまいますが、実際その通りだと思います。

 

また、次の記述、

たとえを持って考えてみましょう。泥棒はいつから泥棒でしょうか。他人の物を盗ったときからですか。あるいは盗ろうと決心したときからですか。明らかに盗ろうと決めたときからです。実行する前の計画や場所の下見などの段階では法律上では泥棒ではありませんが、しかし、良心の前ではあるいは神の御前では泥棒です。人の物を盗る行為をしていないので、法律上は「犯罪人」ではありませんが、心の内ではもう罪を犯した「罪人」なのです。

実行を決心した時点から犯罪である、ということは、キリスト教であろうがなかろうが変わりません。それが裁かれるかどうかの基準が法律と宗教の間で差がある、ということであって、盗みたい、というような考えが「悪いこと」であることに違いは無いはずです。悪いことをしたい、と望むことは「罪」である。これが常識というものです。実際、計画しただけで裁かれる、というように法律が変更されるかもしれない(2017年9月24日現在)、ということは周知の通りです。裁かれる行為の基準は常に変更される可能性があるわけです。

 

私が教会で習った「宗教的な罪」とは、まずもって一般社会の罪、つまり日本の法を侵すこと、次に、イエス様の教えに背くこと、でした。

福音書にあるイエス様の教えより日本の法を優先させる、という意味ではありません。現実世界には、すでに神の恵みが展開されているはずだ、と考えているわけです。まだしも少しマシな考え方だったと思いますが、じゃあ北朝鮮もか、ということになりますよね。この考え一つですべて丸く説明しきれるかというと、そうでは無いわけです。

まあ、少なくとも「今の世界は悪魔が支配している」というようなことを真剣に主張する教会よりはマシでしょう。

 

モーセの律法とは、イスラエルという国家の法律だったわけです。イスラエルには、モーセの律法以外の通常法があって、解釈の基準が異なっていた、ということではありません。モーセの律法によってのみ裁判が行われていたのです。イスラエルの国民にとって、モーセから伝わったものは、宗教ではなくて、法律であり行政であった、神すなわち法律そのものなのであって、法律上の罪と宗教上の罪に差はなかったのだということです。現在の日本には、しっかりとした法律が整備されているのですから、さらに法律の象徴である宗教は不必要だということになります。

 

福音書でイエスは次のように言っています。

マタイ福音書 5:17-20

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

この発言は、新約になったからと言って、律法が無効になったわけではない、かえって効力が強まった、と言っているのだとしか思えないですよね。

つまり、律法に「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」とあるのですから、同性愛者を見つけたら、キリスト教徒の努めとしては、その場で同性愛者を殺してしまわなければならない、ということになります。「その血は彼らに帰するであろう」の意味は、「殺しても律法の「殺すな」には該当しないよ。悪いのは同性愛者だから。」ということです。日本の法律では裁かれるかもしれませんが、それはまあ仕方のないことですね。

エスは、イスラエル国民はイスラエルの法律をきちんと守りなさい、と、言っているだけなのです。そこへ、むりやり宗教を被せようとするから矛盾が生じるわけです。

いかがでしょうか。日本には日本の法がある。そこへ異国の古ボケた法体系を当てはめようとするには無理がある。だから「キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。」というようなトンチカンなことを言わざるを得なくなってしまうのです。

キリスト教というのは、非プラクティカルなママゴト思想でしかない、ということです。