キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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保守と革新

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保守 - Wikipedia を見ると、保守とは

保守主義(ほしゅしゅぎ、英: conservatism、コンサバティズム)または保守(ほしゅ、英語: conservative)は、従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、革命などの急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、勢力などを指す用語。

 と説明されていて、革新 - Wikipedia では、

革新(かくしん)とは、字句通りの意味では新たに革(あらた)めることを意味し、既存のものをより適切と思われるものに変更することを意味する。
伝統的な政治学の図式では、左翼(left)・社会主義(socialism)・共産主義(communism)、あるいは社会自由主義社会民主主義と同義で用いられる。一方、政治学以外では字義通り何かをより良いものに改めていこうとする「改革」(reform)と同義の抽象的な意味で用いられることも多く、「イノベーション」(innovation, 技術革新・刷新・更新・新機軸)の訳語としても用いられる。

 と説明されています。

それでは、キリスト教世界における保守と革新とは、どのようなものをいうのでしょうか。福音書から考えて見ましょう。

 

マタイによる福音 12:1-8

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」。

 自らをダビデに、弟子たちを祭司にたとえているように読めば、いくらでも皮肉な解釈が出てきそうな箇所でもありますが、単純に読めば、「律法は人の命に勝るものではない」という意味を読み取ることができるでしょう。

 

マタイによる福音 21:1213

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

「宮清め」と呼ばれるこの件で、イエスが批判したものは両替人や犠牲の動物を商う商人ではなくて、そのような商売をさせて、儲けから高額の手数料を得て肥え太る、祭司たち宗教関係者でした。

金含有率の高いフェニキアの貨幣でしか献金を受け付けないので神殿の広場で両替商に商いをさせ、献金ばかりか商人から手数料をむしり取って儲けにする、犠牲の動物は神殿の受付で受け取っては何度も使いまわしにしてごまかす。いわば、もうめちゃくちゃな神殿運営がなされていたのです。イエスはそのことに対して批判したわけです。

 

ヨハネによる福音 8:3-9

律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

 律法はゲームのルールではなくて、生きている人間を保護するための約束事なのだと言っているわけです。

 

さて、それではイエス様の考えは保守的だったでしょうか、革新的だったでしょうか。言うまでもなく革新的だったのです。

しかし実際には、教皇だの大司教だのと人の作ったヒエラルキーに加わって満足したり、同性愛者の肛門にビール瓶を突っ込んで殺したり、堕胎した女性を車で轢き殺し、それを行った医師を教会で銃殺したりする、また、什一と称して信者から金をくすねとる。イエス様が福音書で批判したことを、そっくりそのまま行っているのが、「保守的」と評価されているひとたちです。

キリスト教において、福音書的と評価されたいのであれば、革新的な発想でなくてはなりません。なぜなら、イエス様自身がそうであったからです。週に一度教会へ行ってつまらない説教を聞いて、歌を歌って気持ち良かったね、ではダメだということです。

 

本当のキリスト教らしさとは革新的であることです。保守的と評価される立場は、すなわち反キリスト的であるということ。そして、イエス様の思想を純粋に追求すれば、世の中に宗教は不必要である、というところへ行き着きます。

見てご覧なさい、教会が犯罪や蒙昧の温床である事実を。