キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

天国と楽園の違い

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過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも少し述べたのですが、もう一度考えて見ましょう。

中間の状態 - Wikipedia には、次のような説明があります。

正教会の見解として

最終的な判決は最後の審判(古い文献には「公審判」との表現がみられる)に行われるが、その前に、義人の霊も罪人の霊も予備判決(古い文献には「私審判」との表現がみられる)を受ける。義人は死後天使によって楽園の入口に案内され、最後の審判までそこで待つ。ただしこの予備判決は最終判決ではない。最後の審判までに霊の運命が変わる可能性もある。 

 改革派教会の見解としては、

死とは肉体と魂の分離である。死後の中間の状態において、クリスチャンはパラダイスで再臨を待ち、不信者は苦しみながら再臨を待つが、イエス・キリストが再臨され体が復活したときに、栄化されたクリスチャンは天国に行く裁きを受け、恥辱によみがえらせられた不信者は永遠の地獄に行く裁きを受ける。 

正教会カトリック教会でいう「キリスト教徒」は、少なくともそれぞれの教会で洗礼を受けたもの、あるいは改宗したものを言いますが、改革派などプロテスタント教会のいう「クリスチャン」は洗礼を受けているかいないかではなく、信仰心を有するかしないかであり、その点区別する必要があるかもしれないのですが、いずれの場合も、死後すぐに案内された世界は、良いところであれ、悪いところであったにせよ、そこはその人の最終的な落ち着き先ではなくて、最終的には「最後の審判(再臨)」のあとに決まるのだ、というのです。

ということは、死後であっても、だんだんとその人の価値が変化(成長)するかもしれない、ということなのでしょうか、それとも、価値に変化は無いが、予備審と本審の判決に違いがあるかもしれない、ということなのでしょうか。予備審で地獄、本審で天国の場合はいいかもしれませんが、逆であれば悲惨ですよね。被告は上訴することもできません。

しかし、神は全知全能のはずではなかったのでしょうか。なぜ予備審と本審とに分割して評価する必要があるのでしょうか。また正教会の見解には「霊の運命が変わる可能性もある。」とありますから、もはや神の叡慮ではなくて「運命」というような異教の香り高い風物になってしまっています。

改革派教会の見解には「栄化されたクリスチャン」という表現がありますが、栄化するものはおそらく神でしょうから、神が栄化した人物を、神自身が評価する、というような奇妙奇天烈な事柄を大真面目に定義していることになります。

宗教なんてそんなもの、と言えばそれまでですが、キリスト教の死後の定義がこのように滅茶苦茶な理由はなぜかと推察するのであれば、おそらく、ローマ帝国の国教として成立させるに当たって、当時隆盛だった宗教にはゾロアスター教、ミトラス教、ヘレニズムなどがあったでしょうが、それらが主張する死後観を彼らが納得する形でそれぞれ均等に織り込む必要があったからでしょう。そうしなければ、それらの神官たちをキリスト教の聖職者に、それぞれの信者たちをキリスト教徒へと平和的に移行させて、新宗教の教盛を安定させることができなかったかもしれないからです。

キリスト教の死後観が本当にこのようなものならば、キリスト教の神は、定められた手続きに振り回されて、人の命を嬲りものにしてしまう愚物だ、と評価せざるを得ないですよね。