キリスト教の問題点について考える

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聖書に登場する異教の神々

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Rabisu

実は聖書には、異教の神々が随所に登場しています。読んでみましょう。

フランシスコ会訳 出エジプト記 28:31-35

おまえはエフォドの下に着る衣を青糸だけでつくる。そのまん中に頭を出 すための穴をもうけ、それが裂けないように穴のまわりをみみ織り細工とし、皮よろいの穴のようにする。衣のすそのまわりには、青糸、深紅の糸、まっかな糸でよったざくろをつくり、金の鈴もそのまわりにつけて、ざくろと交互になるようにする。すなわち衣のすそのまわりは、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、というようにする。アロンは務めをするとき、これを着なければならない。これは、かれが聖所にはいってヤーウェのみまえに行くとき、また出るとき、その音が聞こえ、かれが死なないためである。

 この箇所に対する同書の注釈から引用してみましょう。

「鈴」の音がアロンを死から守るという考えは、 悪霊が聖所の戸口にひそみ(創4とその注4参照)、音のない状態でそのしきいをまたぐ者にはとびかかるという 古代一般に信じられていた考えに由来するものらしい。

いかがでしょうか。アーロンが儀式で着用する祭服を作る際には、悪霊に取り憑かれて死んでしまうことがないよう、注意事項が盛り込まれていたのだ、と説明されています。

次に、本注にある創世記の4を参照してみましょう。

フランシスコ会訳 創世記 4:6-7

そこでヤーウェはカインに言われた、「おまえはなぜおこるのか。どうして顔を伏せるのか。 おまえが正しければ、顔を上げればよいではないか。おまえが正しくなければ、罪が戸口で待ちかまえているようなものではないか。それはおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」

 この箇所に対する注

本節の大体の意味ははっきりしている。すなわちカインの心の中にはいりこもうとしている邪念(アベルを殺そうという悪い考え)を制するようにと神がカインに警告しているのである(ヨハネ一書3:12参照)。直訳では、「おまえがよくすれば、『上げること』ではないか。しかしおまえがよくしなければ、罪は戸口に伏しているものではないか。それ(伏しているもの)はおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」。「上げることではないか」を「おまえ(とその供え物)はよみされるではないか」の意味に解する者も多いが、本訳のほうが適当と思われる。「伏しているもの」は文法上から見れば分詞(創世記に用いられている他の箇所は29:2 49:14 25)で、男性(「ロベツ」)であるが、この語に関連している名詞「罪」は女性である。おそらく著者の考えが罪の象徴として一般によく知られていたある男性名詞に移ったのであろう。したがってそのあとに続く「それ」は女性ではなく男性となっている。著者が3:24で神の使いを描くにあたってバビロニアの「カリブ」の姿を借りて表現したように(3注12参照)、ここにはじめてしるされた「罪」というものの本性、すなわち人の心にはいりこもうとするものであることを描くために、ここではアッカド人の考える悪鬼「ラビツ」(ロベツと子音は同じ)の姿を借りたものと思われる。この「ラビツ」は家の中にはいりこもうとして戸口のところですきをうかがっている野獣のように伏したものと、当時一般に信じられていた。ペトロ一書5:8で悪魔が「しし」と呼ばれている。

イスラエルの神は、アッカドの神「ラビツ」を引き合いに出して、かの神の意のままになるな、とカインを諭した、と記されているわけです。また、本注にある通り、ケルビムなどの天使や悪魔も、バビロン捕囚で馴染み深くなった、アッシリアバビロニアの異教の神々の一つであったことがわかります。

神の至聖所であっても、その敷居には異教の悪神がいて、その悪神に殺されてしまわないようにまじないを施すようにと聖書には記されており、そのまじないの具体的な内容についても詳細に記されているのです。そして、その具体的な指示を行ったのは神自身であったと記されています。神自身が、異教の神に殺されないようにするにはどうすればよいかを説明しているわけです。

逐語霊感、などと言って、聖書は神自身が直接(人間を利用して)著した、と定義するキリスト教の教派がありますが、そう考えるのであれば、イスラエルの神は異教の神々の存在を知っていて、しかもその能力を恐れていたのだ、ということになるでしょう。

なぜ「火と雲の柱」が神を象徴するのか

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St-Takla.org Coptic Orthodox Church Heritage より

出エジプト記には、火と雲の柱があらわれて、イスラエルの民を先導した、と記されています。読んでみましょう

フランシスコ会聖書研究所、出エジプト記 13:21-22

ヤーウェはかれらの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるように、昼は雲の柱をもってかれらを導き、夜は火の柱をもってかれらに光りを与えられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

フランシスコ会聖書研究所の出エジプト記には、同箇所の注釈として次のように記されています。

「雲の柱」と「火の柱」をつくるために神が用いた天然の要素は、軍団の先頭の火つぼから出る煙や火による信号であろう。雲と火はまもなくヤーウェの保護と栄光の象徴となるが、各伝承においてそれぞれの特色をわずかに異にする(14:20,24,19:16-17,24:16,40:34-38、民9:15-23、申1:33参照、なおネヘミヤ9:19、詩78[77]:14,105[104]:39、知10:17,18:3,19:7、イザヤ4:5、一コリント10:3も参照)。

注釈にもあるように、この出来事の記述により、これ以降の聖書には「雲」といえば「神の臨在」を表す、という常識が定着しています。たとえば、

詩篇 68:4

神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
その名は主、そのみ前に喜び踊れ。

 詩篇 78:14

昼は雲をもって彼らを導き、
夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。

イザヤ書 4:5-6

その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

 マタイによる福音 17:5

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

 

子供の頃、豊中の親戚の家に泊りがけであそびに行ったとき、突然「ゴーッ」という大きな音が聞こえてきますので、驚いていますと親が、「ほら、早く寝ないから地獄から鬼が迎えに来たんだよ」などと言って脅かすのです、後になってあれは伊丹の空港を離着陸する飛行機の音だったと判るのですが、当時は本当に恐ろしく思ったことを覚えています。

 

出エジプトの煙と炎についても、先頭の火つぼの周囲にいる人々にとっては、その火と煙の正体が何かはよくわかっていたのでしょうが、後方の火つぼが見えない人々には、煙と炎だけしか見えないので、子どもたちが、あれは何?と親に問うたとき、親は「あれが神様なんだよ。ああして私達を導いて下さっているのだ」と答えたかも知れません。また先頭から何キロも後方にいて正確な情報に恵まれ難いグループでは、大人たちでさえ、あの白い煙と炎は神ご自身である、と認識していたかもしれません。

いかがでしょうか、流行的な言い方をすれば、こうやって神の姿は「盛られていった」のでしょう。実際の神は、行政の道具として発生し、必要に応じてその姿を変えていったのだというわけです。

しかし、聖書は製品マニュアルとはちがいますので、実生活への応用方法、思想の理解のしかたまでは細かく説明されていません。

たとえば、出エジプト記の上記箇所であれば、つぎのように脳内で変換しながら読めば、比較的正確な理解を得ることができるのではないでしょうか。

イスラエル臨時政府の、出エジプト庁長官は、移動する国民の先頭で、彼ら国民が昼も夜も進むことができるように、昼は火つぼの煙で、夜は燃え盛る炎でかれらに信号を与えた。それは、昼は雲の柱、夜は火の柱のように見えて、国民を導いた。

 

「フリー聖餐」とは

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www.whitehorseinn.org

最近「フリー聖餐」という言葉を耳にします。Wikiの「フリー聖餐」を見てみましょう。

フリー聖餐(ふりーせいさん)とは、キリスト教の聖餐論で、洗礼を受けているか受けていないか、またキリスト教信仰の有無に関わらずに、礼拝参加者に聖餐に与からせること。公開聖餐、未受洗者配餐とも言う。オープン聖餐(オープン・コミュニオン)とは、必ずしも同義ではない。

と説明されているようです。

肯定論の根拠としては

芳賀力によれば、フリー聖餐肯定論の主張は概ね以下のようなものである。

「せっかく教会に来てくれたのに、洗礼をうけていないから聖餐は受けられませんというのでは、締め出しているようで申し訳ない。まず一緒に楽しくパンを食べ、ぶどう酒を飲むことを体験してもらって仲間になってもらえば、そこから洗礼を受ける者も現れるのではないかというわけです。主イエスも罪人呼ばわりされていた人たちと一緒に食事をしたではないか。それに福音書には五千人、四千人の給食の話も伝わっている。あれは神の国が来た時に、ユダヤ人(五千人)も異邦人(四千人)もすべての者が招かれて祝宴を催す、その先取りであって、そこには洗礼を授けていたという記事は、マルコ・マタイ・ルカなどの共観福音書には見当たらない。聖餐式の原型と言われる最後の晩餐にしても、そこには主を裏切ったユダも加わっていた。だから信仰だとか洗礼だとか、とやかく言わないで、その場にいる者全員に、大人も子供も、たとえ意味が分からなくてもパンを食べぶどう酒を飲んでもらおう」
—芳賀力『洗礼から聖餐へ』11ページ

また、世界教会協議会(WCC)のエキュメニカル運動の中で、一部の人たちが「神ご自身が教会を飛び越して、直接世界にさまざまな仕方で働きかけておられ、教会はただその神の宣教に参加しているだけだ」と考えるべきという主張をしており、聖餐の行為自体が神の宣教への参与なのだから、未受洗者に陪餐してもらうことが伝道であり、それが世界の趨勢だという主張もある。

富田正樹は、フリー聖餐を肯定する論述の中で、「人間には贖いが必要ではない」と述べている。

 とあり、否定論の根拠は、

2006年6月27日、日本基督教団の信仰職制委員会は、教規第135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない。ただし、未陪餐会員のない教会ではこの限りでない。」および第138条(1)「未陪餐会員とは、幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領し、まだ聖餐に陪しえない者をいう。」、第136条「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう。」を根拠に、未受洗者が聖餐に与ることはできず、未受洗者への配餐を教会総会および教会役員会で決議した場合、教規に違反する決議となるため無効である、と答申した。

これは、日本基督教団の教憲教規に照らし合わせての判断であり、東野尚志は「どうしても、この一致の要を共有できないのであれば、新しい教団を造ればよいのである。それを妨げるものは地上には存在しない。」と述べた。

とあります。

どちらの主張もそれぞれごもっともというところでしょう。肯定派の信徒はご自分の気持ちに叶う肯定派の教会へ所属すればよろしいでしょうし、否定派もまた然りです。

ただ、肯定派について一言申し上げるとすれば、

『大人も子どもも、意味の分かる人もわからない人もみな共に、と言うのであれば、なぜ、人と人とを区別するための儀式である「礼典」にこだわるのですか、そんなこと、止めてしまえば早いのではないですか。 』

ということでしょう。意味がわからなくておこなっても別に構わない、というのであれば、それは、おこなわなくても構わない、ということです。人と人とを区別することが不適当であるように感じるのであれば、キリスト教徒であると自覚すること、それそのものが不適当であるはずです。

事実、救世軍とクエーカーは洗礼も聖餐も行いません。キリスト教の本質は儀式を執り行うことのなかには存在しない、と理解しているからです。

エス様が最後の晩餐で、このことを私の記念として行いなさい、と述べられたのは、キリストの示唆が日常生活の中だけに生きるべきであることを明らかにするためであったのです。少なくとも宗教や儀式に成り下がってはならない、という切実な願いを伺い知ることができるでしょう。しかし、実際はキリスト教という宗教が、聖餐式という儀式を行っているのです。実に裏腹で陳腐な現実です。

おわかりでしょうか、「聖餐式」がフリーであろうとなかろうとその結果に大差は無い、ということです。また、洗礼を受けた人が、受けていない人に比較して明らかに優れているかといえば、別に何も無いように思えます(笑)。

米軍のライフル照準器に聖書示す刻印

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www.afpbb.com

2010年1月21日のAFPニュースの「米軍のライフル照準器に聖書示す刻印、イスラム団体らが激怒」という記事から引用します。

【1月21日 AFP】(一部更新)イラクアフガニスタンに駐留する米軍が、ケースにキリスト教の聖書の箇所を示す刻印が入ったライフル照準器を使用していることが分かり、米国内のイスラム教徒団体などが20日、強い怒りを表明した。

 この照準器の製造会社トリジコン(Trijicon)と、米陸軍および海兵隊が、80万個を超える同照準器の納入契約を結んでいることが明らかになった。

(中略)

 AFPが写真で確認したところでは、問題の刻印はヨハネ福音書8章12節を符合化した「JN8:12」で、この箇所には「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』」という言葉が記されている。(c)AFP 

この記事でおかしいと感じるのは次の表現です。

国防総省のダリン・ジェームズ(Darryn James)報道官は、「決定が真実だとすれば、明らかに不適切。改善措置を検討する」と述べた。

おかしな話です。なぜ不適切だと言うのでしょうか。キリスト教国であるアメリカの軍隊が、神の名に拠る軍事行為のために用いる軍備に、神の言葉を刻み込むことの何が不適切なのかわかりません。それが「正しいこと」であるのであれば、武器を神の言葉で修飾することは適切なことであるはずです。兵士には仏教徒イスラームも在籍するかもしれませんが、大統領就任に際しては聖書に手を置いて宣誓し、国立の大聖堂を有するキリスト教アメリカのお話なのですから、そこは許されるべきなのではないでしょうか。

聖書から問題の箇所を見てみましょう。

ヨハネ福音書 12:8

エスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

しかし、なぜこの箇所が引用されたのかがよくわかりませんよね。武器が世の光をもたらすという暗喩なのか、それとも戦争を礼賛しているのでしょうか。別の記事、

gigazine.net

によれば、

トリジコン社は創業以来、時計の文字盤などにも用いられる放射性物質トリチウムを利用し、暗い環境でも照準用の点が見えるようにしたスコープを製造しています。

とあり、また、

光に関する節が多く選ばれていることから「異教徒を滅ぼせ」というより、会社のモットーと「いつでもどこでも光り続ける」という同社製品の特徴を聖書の引用で表すという意図があるように思えますが、

とあるところをみますと、結局、聖書を利用して自社の特色を宣伝しているだけということなのかも知れません。

ま、いいんじゃないですか。戦争で儲ける武器製造会社が宣伝のために聖書の記述を利用するのは、お互い似たもの同志、同じ血の匂いを感じるからでしょう。目くじら立てる必要は無いと思いますよ(笑)。

キリスト教徒は何を信じているのか

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www.dreamstime.com

キリスト教徒はなにを信じているのでしょうか。神でしょうか。では、神を信じるとは一体どのようなことなのでしょうか。「神を信じる」とはつまり何でしょうか。神が実在する、と思い込むことでしょうか。しかし、確認せずになぜそう思い込めるのでしょうか。そして、仮に実在したとして、信じるとは何のことなのでしょうか。

「信仰」というあやふやな事柄について、それは何かとか、何故かと深入りしても仕方がないことはなんとなくわかるのですが、この際少し考えてみましょう。

「私は神を信仰している」と考えているキリスト教徒の方は、一度よく考えを整理してみてください。あなたが信じているものとは一体なにですか、神が実在するということですか、それは正直なところ、いるかいないかわからないからですよね。

キリスト教徒のみなさんが信じているものとは、実際のところ、神や神の教えではなくて「教会の方針」なのではないでしょうか。しかも、偶然入信した教会の、その方針を信じているに過ぎない場合がほとんどでしょう。

教会が「イエス様は神様だ」と言っているからイエス様は神様なのだろう、教会が「マリヤ様には原罪がなかった」と言っているからマリヤ様は無原罪だったのだろう、これが「信仰」の正体です。

そして問題は信仰の保存方法でしょう。「神」の実体があやふやなので、それに追随するところの「信仰」という概念もまたあやふやです。それゆえ、「信仰している人」たちは、自分の信仰を少しでも強健なものにするために、他人の信仰を中傷するのです。そちらの信仰は間違っていてこちらの信仰は正しい、というわけです。

それでは、再び問いますが、信仰とは何ですか。

  • 「神が実在する」と思い込むことですか。
  • 「人間は生まれつき犯罪者だ」と思い込むことですか。
  • 「イエス様が代わりに殺されたので人間が赦された」と思い込むことですか。
  • 「死んだら天国か地獄で転生する」と思い込むことですか。

まとめると、信仰とは「自分の頭で考えることをやめようと決心すること」となるでしょうね。

キリスト教と奴隷

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mainichi.jp

上に貼った毎日新聞の記事「イギリスでも奴隷商人の銅像倒される 米黒人男性暴行死 抗議デモ拡大」から引用してみましょう。

英南西部の港町、ブリストルでは7日、地元で活動した17世紀の奴隷商人、エドワード・コルストンの銅像が抗議デモに参加した市民によって台座から引きずり下ろされた。

銅像は人々に踏みつけられた後、街中を転がされ、歓声の中、港に投げ入れられた。デモに参加した黒人女性は英国公共放送BBCに対して「破壊行為と言われるだろうが、この銅像の存在は、すべての黒人にとって顔を蹴られるようなものだ」と訴えた。 

しかし、 そうはいいますが、そもそもアフリカなど植民地化した国々の原住民を奴隷商品として流通させたのは、英国やポルトガル、スペイン、アメリカなどのキリスト教国だったのではないでしょうか。あまり知られていないことですが、実際には日本だって危なかったのです。日本でキリスト教が禁じられた実際の理由は、ポルトガルやスペインが日本人を奴隷として売買したこと、宣教師が日本人信者を扇動して神社仏閣に放火したり、仏像などを毀損したり、甚だしきは神祇官や僧侶に危害を加え、殺害するなどの犯罪を行わしめたりしたからです。次の記事などを読んでみてください。

ironna.jp

 

さて、それではイエス様は奴隷についてどのように語られたのでしょうか。ヨハネ福音書には、イエス様から「奴隷」ということばが発せられたことが記録されています。

ヨハネ福音書 8:33-35

そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。

奴隷について言及してはいるようですが、奴隷制度に反対するとか、奴隷を解放しなくてはならない、といった意味ではなさそうです。

書簡にも奴隷に関する記述がいくつかありますが、いずれも似たようなもので、「囚われの身」を表す比喩として用いられている場合がほとんどであるように見受けられます。中でも、テトス書には印象的な記述がありますので引用してみましょう。

テトス書 2:9-10

奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。

おわかりいただけると思いますが、これは、奴隷をどのように躾けるべきか、ということの説明であって、奴隷制を廃止して奴隷を解放するどころか、神の教えを固く守るためには奴隷が必要である、ということのように読めなくもありません。

いかがでしょうか、キリスト教という文化は奴隷ありきなのです。奴隷によって栄え、奴隷を踏みにじることによって発展してきたわけです。

 

ブリストルの人たちがエドワード・コルストンの像を海に投げ入れたところで、現状の価値観に合わせて先祖の行いをごまかしたに過ぎません。しかし、キリスト教聖典には、奴隷の矯正方法は説明されていますが、奴隷制度が悪いことであるとは書かれていないのです。むしろキリスト教徒にとっては「わたしたちの救主なる神の教を飾ること」のためには奴隷は必須のアイテムだということになるでしょう。

「天国で一番偉いもの」とは

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福音書には、弟子たちが「我々のうちで一番偉いものは誰か」ということに関心を持っていたことが記録されています。見てみましょう。

マタイの福音書 18:1-3

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 

 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書全てに記されているエピソードなのですが、「天国では」という条件が示されているのはマタイだけのようです。

この箇所には、説明のためにこどもが引き合いに出されているせいか、日曜学校でもよく話題にされる箇所ではないかと思いますが、僕は不思議に感じたことを覚えています。みなさんはいかがでしょうか、

天国が、人が死んだあと神の裁量によって行き着く、その人の魂の落ち着き先であるとするならば、その場所で、誰が偉いとかその次だとかいう考えは、とてつもなくトンチンカンなことなのではないでしょうか。神様が一番偉いに決まってますよね。いくら弟子たちが未熟だったとしても、そんなことがわからなかったとは思えません。

これ、実は簡単なことで、間違っているのは現代の読み手であるキリスト教徒のほうなのです。つまり、イエス様の言う「天国」は死後の世界のことなのではなくて、今生きているこの時代のこの世界に実現されるべき理想の社会のことだったのです。

そのことはイエス様に教えてもらっていた弟子たちも充分承知していたわけで、この世に実現するべき世界だからこそ、誰が偉いのか、という疑問がでてくるのです。彼らは封建社会しか知らなかったからです。

しかしいつの間にかキリスト教は「天国」を死後の世界のことにしてしまったのです。「死」という曖昧な、しかも誰にでも必ず訪れる恐怖を和らげるための文化としての位置に安定してしまったわけです。「宗教」になってしまった、ということです。