キリスト教の問題点について考える

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キリスト教と奴隷

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mainichi.jp

上に貼った毎日新聞の記事「イギリスでも奴隷商人の銅像倒される 米黒人男性暴行死 抗議デモ拡大」から引用してみましょう。

英南西部の港町、ブリストルでは7日、地元で活動した17世紀の奴隷商人、エドワード・コルストンの銅像が抗議デモに参加した市民によって台座から引きずり下ろされた。

銅像は人々に踏みつけられた後、街中を転がされ、歓声の中、港に投げ入れられた。デモに参加した黒人女性は英国公共放送BBCに対して「破壊行為と言われるだろうが、この銅像の存在は、すべての黒人にとって顔を蹴られるようなものだ」と訴えた。 

しかし、 そうはいいますが、そもそもアフリカなど植民地化した国々の原住民を奴隷商品として流通させたのは、英国やポルトガル、スペイン、アメリカなどのキリスト教国だったのではないでしょうか。あまり知られていないことですが、実際には日本だって危なかったのです。日本でキリスト教が禁じられた実際の理由は、ポルトガルやスペインが日本人を奴隷として売買したこと、宣教師が日本人信者を扇動して神社仏閣に放火したり、仏像などを毀損したり、甚だしきは神祇官や僧侶に危害を加え、殺害するなどの犯罪を行わしめたりしたからです。次の記事などを読んでみてください。

ironna.jp

 

さて、それではイエス様は奴隷についてどのように語られたのでしょうか。ヨハネ福音書には、イエス様から「奴隷」ということばが発せられたことが記録されています。

ヨハネ福音書 8:33-35

そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。

奴隷について言及してはいるようですが、奴隷制度に反対するとか、奴隷を解放しなくてはならない、といった意味ではなさそうです。

書簡にも奴隷に関する記述がいくつかありますが、いずれも似たようなもので、「囚われの身」を表す比喩として用いられている場合がほとんどであるように見受けられます。中でも、テトス書には印象的な記述がありますので引用してみましょう。

テトス書 2:9-10

奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。

おわかりいただけると思いますが、これは、奴隷をどのように躾けるべきか、ということの説明であって、奴隷制を廃止して奴隷を解放するどころか、神の教えを固く守るためには奴隷が必要である、ということのように読めなくもありません。

いかがでしょうか、キリスト教という文化は奴隷ありきなのです。奴隷によって栄え、奴隷を踏みにじることによって発展してきたわけです。

 

ブリストルの人たちがエドワード・コルストンの像を海に投げ入れたところで、現状の価値観に合わせて先祖の行いをごまかしたに過ぎません。しかし、キリスト教聖典には、奴隷の矯正方法は説明されていますが、奴隷制度が悪いことであるとは書かれていないのです。むしろキリスト教徒にとっては「わたしたちの救主なる神の教を飾ること」のためには奴隷は必須のアイテムだということになるでしょう。