キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「主の変容」の真実

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kwaweber.org

マタイの福音書から「主の変容」と言われている出来事を読んでみましょう。

マタイの福音書 17:1-7

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。 

この箇所について、よく聞く説教としては、イエス様がモーセとエリヤとともに弟子たちに威容をお示しになったのは、ご自身が神であることを示すためであった、というものではないかと思います。すなわち、実際の出来事をそのまま叙述しているのだ、という考えです。

しかし、このブログではいつも説明申し上げているように、福音書は二重の譬え話で構成されているのであって、事実がそのまま叙せられているところは無い、と言っても間違いではないでしょう。この箇所も同様です。

ここで、モーセは「律法」をエリヤは「預言」を表していますが、その二人と語り合っている、という表現から、イエス様自身が、律法そのものであり、預言そのものでもある、ということを表現しているということがわかります。イエス様という存在に、正義を象徴させているのだ、と説明しているわけです。

また、白い雲は、出エジプト記の次の記述から、「神の臨在」を象徴的に示す符牒として使われる常套表現です。見てみましょう

出エジプト記 40:34-38

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。

 「雲」とは、エジプトを脱出するイスラエルの群れの目印となるように、大きな火壷で燃やされた獣脂から立ち上る「煙」のことです。この白い煙はイスラエルを導く神そのもののようである、というところから、「白雲」や「密雲」はイスラエルの神、またその臨在を象徴するようになって、福音書のこの箇所にも応用されている、ということなのです。

今日、カトリック教会や正教会で香炉で香を焚いて白い煙を発するのはこのことを思い起こして「神の臨在」の意味を知るためでもあります。旧約聖書で、その年の大祭司が年に一度、香炉に香を薫じて至聖所を白い煙で満たすことも同じです。「白雲」が神の臨在を象徴しているからです。

聖書には暗喩や暗号が溢れている、と考えているひとが たくさんいるように感じますが、暗喩、暗号ではなくて「象徴的表現」と言ったほうが正しいでしょう。

この箇所は、イエス様が説明されるいろいろな事柄は、預言であり、律法であり、神に等しい正義でもある、ということを象徴的に表現しているのです。

「神に等しい正義」については過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で説明していますので参考になさってください。

では、イエス様は福音書で何を説明しているのか、それはズバリ、「ものを捨てろ」ということです。ブログを通して何度も説明している通りなのです。

福音書を読む人は、キリスト教徒になって得られるところの特典であったり、非キリスト教徒よりも優れている点であったり、それ故に評価される事柄、などを読み取りたがります。そうして、そのような解釈をよく目や耳にしますが、実際にはそんなことは一言も書かれてはいません。ただ、捨てろ、と指導されているばかりです。

同じマタイの福音書から少し確認してみましょう。

マタイの福音書 6:25

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 

マタイの福音書 10:37

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 

マタイの福音書 19:21

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 

マタイの福音書 19:29-30

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

まだまだたくさんあります。たくさんというよりは、福音書はそのことだけをひたすらに主張しているのです。人は、ものを捨てれば幸福になれる、ものを捨てるとはどういうことなのか、そのことを教えているわけです。

変容したのはイエス様ではなくて、福音書を読んでいるあなた方がこれから変容しなければいけないのだよ、と語りかけているわけです。

キリスト教の犯罪集

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note.com

上記サイト「ローマ教皇来日記念 キリスト教の犯罪集」を見つけましたのでご紹介しましょう。中には、正教会の幼児洗礼についての話題など、さすがにそれはちょっと言いがかりでは、と思うようなものもあり、また、ちょっと信じられないような過激なものもあるようです。示されていた記事のサイトが実在するものだけを、以下に再掲しておきます。

心の傷になってしまわないよう、気をつけて御覧ください。

 

マザーテレサ首謀者で人身売買!バチカンに赤ん坊を販売していた!

globalnews.ca

マザーテレサの長年の助手は事件発覚の日昨、日殴り殺された

www.nbcnews.com

行方不明のティーン・エマヌエラ・オーランドを捜索中のバチカンで 「数千もの」 骨が発見された

7news.com.au

バチカン市国の方針により、司祭は子供を強姦することを許可されている

www.nbcnews.com

HIV に侵されていているのに 30 人の子供をレイフ

「大きな間違いを犯した」 児童の性的虐待カトリック教会幹部

www.bbc.com

これを私に説明していただけませんか。350,800人の行方不明の子供たちのカトリック教徒の集団墓地が見つかりました......

www.bbncommunity.com

写真左の神父は、同性と結婚したためカトリック教会から破門された。 右の神父は、24年の間ろうあ学校で数百名の男子生徒をレイプ

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写真16枚】アルゼンチン西部メンドサにある聴覚障害者学校で、子どもたちにレイプを含む性的虐待を行っていたローマ・カトリック教会の聖職者2人に対し、現地の裁判所は25日、40年を超える禁錮刑を言い渡した

www.afpbb.com

カトリック教会の性的虐待スキャンダル、法王はどうする バチカンで会議始まる

www.bbc.com

聖職者たちがを幼児レイプしていた─ カトリック教会で300人以上の「肉食聖職者」による性的虐待

https://www.buzzfeed.com/jp/maryanngeorgantopoulos/300

ローマ法王性的虐待の通報を聖職者に義務化 新たな教令発表(2019年5月)

www.afpbb.com

50年間続いてきたカトリック教会「性的児童虐待」の深い闇

gendai.ismedia.jp

カトリック司祭をレイプと児童性的虐待で起訴、仏ベルサイユ

www.afpbb.com

進まないバチカン改革 性的虐待、法王と官僚組織対立か

www.asahi.com

【2015年 寺社油撒き事件】反日キリスト教の狂気カルト思想「霊の戦い」を徹底解説【日本が危ない】 - NAVER まとめ

matome.naver.jp

ローマ教皇「難民、受け入れて。」ふざけるのもいい加減にしてほしい。その前に自分の犯罪を何とかしたらいかがですか?人の国に首突っ込まないで欲しい❗

snjpn.net

十字軍遠征はなぜ9回も行われたのか?【聖地エルサレムの奪還】 - 草の実堂 。当初は「聖地エルサレム奪還」だったのが、やがて「キリスト教VSイスラム教の領土争い」と化したそうな。

kusanomido.com

児童性的虐待は「いけにえの儀式」のよう ローマ法王、具体的対策を約束

www.bbc.com

キリスト教団体で性的虐待、被害者が4千人以上。6割以上が男…

harsio.net

カトリックの宗教的な命令により、2,000人以上のアイルランドの子供が”麻薬”医療実験で使用されることが許可された

www.irishcentral.com

50年間続いてきたカトリック教会「性的児童虐待」の深い闇

gendai.ismedia.jp

司祭が7歳少女を強姦「カトリック教会の小児性愛狂い全貌と隠蔽」米司法長官が暴露!

tocana.jp

聴覚障害者学校で性的虐待、聖職者2人に40年超の禁錮刑 アルゼンチン

www.afpbb.com

「神父から性的被害」 長崎大司教区で女性信者が訴え

www.asahi.com

キリスト教団体で性的虐待、被害4千人超 豪政府が調査

www.asahi.com

 

「最後のアダム」とは

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www.christianheadlines.com

「最後のアダム」という言葉をご存知でしょうか。最後のアダム、とは、イエス様のタイトルの一つで、キリスト教の殆どの教派において共通の理解でもあります。根拠となったコリント人への第一の手紙を読んで見ましょう。

コリントⅠ書15:45-48

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。

最初のアダムは神が地の塵を集めて作ったものであったが、最後のアダムは天の作られざる存在である、と説明されています。また、最初のアダムは蛇の誘惑に負けてしまったが、最後のアダムであるイエス様は荒野での誘惑に打ち勝ったのだ、とも説明されます。

しかし、過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でもご説明しましたように、聖書では「悪魔」を「神の手下」、もっとわかりやすく言えば、「神の属性の一部」として表現しているのですから、最初のアダムが神に試みられることは自然のことかも知れませんが、イエス様が神であると理解しようとするのであれば、それは奇妙なこととなってしまうでしょう。

僕は子供のころ、この「最後のアダム」というイエス様のタイトルを教わったとき、最初のアダムは、直接蛇に誘惑されたのではなかったけれど、イエス様は直接悪魔に誘惑されたと記されていることについてはどうなのだろうか、と感じたことを覚えています。

また、イエス様が最後のアダムとして、神でありながら人の世に顕現し、最初のアダム以来、人類を苦しめてきた原罪のくびきから、すべての人を等しく解放した、と定義するのであれば、未だ世界において戦争や貧困が絶えないのはどうしてなのだろうか、と考えたことも思い出します。

「最後のアダム」という考え方は、そう言われてみれば、という程度でいいのであれば、わかりやすく、また情緒的で美しいものであるかもしれませんが、論理的に正かどうかと言えば、ちょっと無理やりの感じがしますよね。

パウロ(や同行者)の手記は、福音書を取り巻く思想の流行が、一つの宗教としての安定を示す以前の状態で、それは、たとえばこんな風に考えてみてはどうだろうか、として示した、極端な一つの案に過ぎなかった、ということではなかったでしょうか。

そのような苦渋の痕跡を、とりあえずはお題目とばかりに盲信していては文化的に見て水準が低まるばかりだと言わざるを得ない、ということになるでしょう。

キリスト教の聖書解釈は、そういうところが多いです。

神は人の足を洗うか

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www.musey.net

 

ヨハネ福音書に、「最後の晩餐」に先立って、イエス様がお弟子たちの足を洗われたという事跡が物語られえています。見てみましょう。

ヨハネ福音書 13:1-5

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 そして、次のような指導をした、とあります。

あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。

ほとんど、説明を要さない、よく意味のわかる箇所ではないかと思います。イエス様の教えを説こうとするのであれば、上から偉そうにものを言ってはいけないよ、まず、あなた方がへりくだって、その教えを実践して示しなさい、と言っているわけです。

前回の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

では、内村鑑三が、他人にイエス様の教えを説こうなどということは馬鹿げたことだ、そんなことをするよりは、まず自らがその教えを実践することだ。そうすればそれを人が見てその教えの正しさを知るだろう、と答えたことを紹介しましたが、内村は、福音書のこの箇所で、イエス様自身がすでにそのような指導をしている事を知っていたわけです。

受難の木曜日の典礼として、色々な教会でその教会の伝統的な洗足式が行われていますが、正教会におけるそれは、おそらく最も荘厳で感動的なものかも知れません。見てみましょう。

いかがでしょうか。まさに「目を奪われる美しさ」であることをご納得いただけたのではないでしょうか。

しかしいかに美しくとも、それは抽象的な行事としての様式化された美しさに過ぎないのです。内村が「そんな馬鹿げたこと」と言ったのはまさにこのことだと思います。

人に必要なことはすべてのこだわりを捨て去ってしまうことです。人の足を洗うものは神ではありません。「この人は神である」というような思いであっても、結局は実をなさない儚いこだわりでしかないこと、自分自身に置き換えて理解するのであれば、教えるのではなくて、まず自らおこなうこと。イエス様が福音書を通して教えておられるのはこのことです。

無教会のススメ

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www.dokuritsugakuen.com



過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でもご紹介しましたが、再度、内村鑑三の「問答二三」という作品から一部を見てみましょう。

 問、他人たにんみちを説くに如何いかなる方法はうはふるべきや
 答、かつ如此かくのごとき事をこゝろみし事なし、こゝろみてそのはなは馬鹿気ばかげきつたる事をみとめたれば全然ぜん/\之を放棄はうきせり、みちおこなことみちく事なり、殊更ことさらつとめて他人たにん教化けうくわせんとするが如きはこれを為す者の僣越せんえつしめし、無智無謀むちむぼうしようす、る大陽はつとめてかゞやかざるを、ほしは吾人の教化けうくわはかつひかりはなたず、からざるをざればひかるなり、しゆり、しゆれに宿やどときは我はつとめずして光をはなつなり、而してわれより出るしゆひかりわれしんぜずしてしゆしんずるにいたる、しんずる基督教的きりすとけうてき伝道でんだうなる者なり。

 「キリスト教を人に教えるときはどのようにすればよろしいでしょうか」という問に対して、

「そんな馬鹿げたことはしないほうがマシだろう。キリスト教を知らないものがそんなつまらない事をしようとするのだ。考えてみなさい。太陽や星はそれ自身、輝こう光ろうと努力して光を放っているわけではないだろう。光らざるを得ないから光っているのだ。そのように、神の恵みが私を輝かすとき、世の人はその光を見て、私をではなくて神を信じる。それが私の考えている伝道である。」

と答えた、とあります。

キリスト教をよく知らないものがキリスト教を教えたがる」

内村のこの観察はただの皮肉ではありません。福音書が伝える最も強いメッセージである「すべての持ち物を捨てる」を軽んじ、儀式や献金を重要視することがキリスト教の本質ではないだろう、と教えているわけです

夏目漱石の著作を読んで、そのように理解してはならない。その箇所はこういう意味だからそのとおりに理解しなさい、と言われたらどうでしょうか、そんなことは馬鹿げたことだと思わないでしょうか。しかし、キリスト教の教会とは聖書をそのように取り扱うところなのです。わざわざ高い金を支払って、思想や理解力を低い位置で固定され、挙句の果てに出来上がるのは、教会の思惑通りに規格化された、何の魅力もない無個性な人でしかありません。

教会へ行ってみたいと考えている人は、キリスト教に興味があるのか、聖書に興味があるのかを整理してみてはいかがでしょうか。キリスト教の儀式や習慣、美術や音楽に興味があって教会へ行ってみたい、という人は教会へ行くしかないでしょうが、聖書を読んでみたい、という場合は教会へ行く必要は全く無いと思います。

本屋で聖書を買って読めばいいだけのことです。その理解がどうであれ、別に他人と同じである必要なんて全く無いわけです。

「無教会」というからには、内村鑑三の主張にカブれていなければならない、ということもありません。また、神の存在を否定するものは聖書を読んではならない、ということも無いと思います。

宗教、就中キリスト教イスラム教と言ったような一神教は、社会主義の原初的な実現形態であるわけです。自由を拒否しているのです。共産党が彼らを弾圧し、彼らがコミュニズムソーシャリズムを忌避する理由は「同族嫌悪」によるものなのでしょう。

ディスマス(右盗)の告白

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ja.m.wikipedia.org

「ディスマス」はルカによる福音書に登場する人物ですが、そんな人いたっけ、と思われた人がほとんどでしょう。その人物はその名前では登場しないからです。

ja.wikipedia.org

から引用してみましょう。

ディスマスは、キリスト教正教会カトリック教会)の聖人である。

キリストと共に十字架に架けられた二人の犯罪者のうちの一人で、キリストの口から直接天国行きを約束された。ディスマスは聖人名簿に載せるために付けられた仮の名で、本名は不詳である。正教会では特に名前では記憶されず、「右盗」(うとう)とのみ呼ばれる。

キリストが両親と共にヘロデの手を逃れてエジプトに向かう途中、一夜の宿を貸した家の息子だったという伝承がある。 

正教会では「右盗」と呼ばれていますが、これも、左右の記述があるわけではなくて、おそらく右側、という憶測でそう言っているようです。

正教会「聖体礼儀」の祈祷式文「領聖祝文」中から、この人物に関する箇所を引用してみましょう。

(前略)

神の子や、今我を爾が機密の筵に與る者として容れ給へ、蓋我爾の仇に機密を告げざらん、又、爾にイウダの如き接吻を為さざらん、乃ち右盗の如く爾を承け認めて曰ふ、主や爾の国に於いて我を記憶せよ、と。

(後略 )

 

それでは、この人物が登場する福音書の該当箇所を見てみましょう。

ルカによる福音書23:39-43

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この人物についてWikiでは

キリストと共に十字架に架けられた二人の犯罪者のうちの一人で、キリストの口から直接天国行きを約束された。」

と説明されています。プロテスタント教会でも概ねそのように説明されていて、新旧約時代を通して、神が直接天国行きを保証した人物は、この人物ただ一人だけである、などと説明されます。

皆さんはこの箇所を読んでどう感じられたでしょうか。死後の霊魂の行方を予言した、と読み取れるでしょうか。僕はどう読んでもそのような意味だとは思えないのです。

むしろ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」という願いに対して、そのような国や権威は空想にすぎない、と諭しているのではないかと感じます。

また、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という言葉からは、死後、つまり、未来の予告であると感じることができません。現在の状況の説明であるとしか理解できないわけです。

つまり、イエス様は、この人物に対して、今まで福音書をとおして説明したこと、「すべての持ち物を捨てなさい」ということを、あなたは実現したのだよ、と評価した、ということなのではないでしょうか。

同じルカ福音書には、イエス様が神の国について、次のように説明した、とあります。

ルカによる福音書17:20-21

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

死刑に処せられるような罪人であったとしても、全てをなげうつ潔い覚悟と、真実を求める素直な心があれば、そこには本当の意味でのパラダイスが実現される、イエス様はその事を説明しておられるわけです。

生きている間に、あなたの心の中にパラダイスが実現した。よかったね、と喜びをともにされた、ということだったのです。

死後に新しい世界などは存在しないのです。教会が、存在しないものを存在するのだと言い張るそのわけは、利の良い商品として取り回し続けるために必要としているからに過ぎません。真実を否定する俗物として描かれたもうひとりの盗賊は、はからずもキリストの体と自称する教会を写す鏡だったのです。

内村鑑三は知っていた

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内村鑑三

皆さんは内村鑑三をごぞんじでしょう。僕もいくつかの著作を読んではいるのですが、結局このひとも、教会の言っている天国や地獄の思想に振り回されているように感じます。無教会主義を掲げてはいますが、その主義は教会が主張している思想そのままなのであって、教会でうまくやれなかった人が教会からはじき出されて教会を批判しているだけなのではないか、と思いました。

しかし、次の短い作品を読んでみると、案外ちゃんとした考えがあったのかも、と思わされます。

www.aozora.gr.jp

冒頭から少し引用してみましょう。

 問、足下は日本の基督教は今より何年をして復興するとかんがへらるゝや
 答、教会けうくわい草木さうもくまた動物どうぶつの如き自然物しぜんぶつにあらず、草木は時期じきさだめてはなむすび、小児せうに時期じき経過けいくわすれば成人せいじんして智力ちりよく啓発けいはつに至るべし、しかれども教会けうくわい人為的じんゐてきなり、復興ふくこうせんとほつせば明日めうにち今日こんにちこれ復興ふくこうするをべし、而してその復興ふくこうはうたるや、安楽椅子あんらくいすかゝり、或は柔軟じうなんなる膝褥しつぢよくうへひざまづ如何程いかほど祈祷きたう叫号きうごうするも無益むえきなり、しよを山上にけながら眼下がんか群住ぐんぢうするあはれなる数万の異教徒ゐけうとめに祈願きぐわんめるも無益むえきなり、教会けうくわい復興ふくこう方策はうさくとは教導師けうだうしみづからつるにあり、家族かぞく安楽あんらく犠牲ぎせいきやうするにあり、しミツシヨンより金をもらこと精神上せいしんじやうかれかれ教会けうくわいの上にがいありとしんずればたゞちに之をつにあり、我れゆるとも可なり、我の妻子さいしにして路頭ろとうまよふに至るも我はしのばん、真理しんりは我と我の家族かぞくより大なり、この決心けつしん実行じつこうあらん教会けうくわいたゞち復興ふくこうはじむべし、れなからん乎、復興はおはりまでつもきたらざるべし。

 「先生は、教会がいまよりもっと隆盛になるまで、何年ぐらいかかると考えますか。」

という問に対して、

「明日でも、いや、今日すぐにでも。そのためには、椅子に掛けたまま、あるいは柔らかいクッションに跪いたままでいくら苦しい顔をしてお祈りをしても役にはたたないし、涼しい山の上から異教徒たちを見下ろしてお祈りをしても役には立たない。教会の指導者たちは、まず、自分の身を捨てて、家族の生活の安定をも求めず、教団から給料を得ることが理想実現の妨げになるのであればそこから離脱して、自分が餓えて家族が路頭に迷ったとしても、真理は自分や家族よりも大切なことである、という理解とその実行力があれば教会は今すぐにでも隆盛になるだろうし、なければ、世の終わりまで待ってもならないのだよ。」

と答えています。

内村は、教会が自分の意のままにならないからという理由だけで無教会を掲げたわけではなかったようです。

福音書には、洗礼を受けることや聖餐に与ることではなくて、財産を捨てることが、真理へと至る唯一の道である、と記されていることを、内村は知っていたのです。