キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

教会と説教

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www.theforsythbrothers.com

 

上に貼った写真は、英国国教会のウースター大聖堂にある「説教壇」の写真です。「説教壇」とは聞き慣れない言葉、と感じた方もおられるでしょう。おそらく、日本にはこのような形状の説教壇を備えた聖堂は無いのではないかと思います。

この写真の例は国教会の大聖堂におけるものですが、このような様式の説教壇はカトリック教会で発達したものでしょう。正教会の場合は、至聖所と聖所の境目、アルタリ(高所)の中央、王門の前で説教を行いますので、このような説教壇はありません。下の写真(函館ハリストス正教会:市民クリスマス、聖堂に響く歌声 /北海道 - 毎日新聞)を参照してください。

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説教を行うニコライ神父(左奥)=函館市元町の函館ハリストス正教会

さて、では説教とは何でしょうか。一般には、聖書の記述内容を専門家が信徒に行う説明である、と理解することができるでしょう。

しかし、古典の韻文や幾何、微積分などであるならまだしも、わかりやすくたとえ話で語られた福音書や、誰が読んでも理解できるよう配慮された文章であるところの使徒の書簡をなぜ再び第三者が説明する必要があるのでしょうか。

その理由を説明するためにはローマ帝国の東西大分裂にまで話を遡らねばなりません。細かく説明するのは面倒なので端折りますが、西帝国の教派であったローマカトリックは、ラテン語で礼拝を行い、聖書もラテン語に翻訳されたものを用いて朗読していました。第二バチカン公会議で、各国の国語で行うようにという指導が行われたのは、ほんの50年前のことですが、それまでは日本であってもカトリック教会の礼拝はラテン語で行われていたのです。

また、聖書は信徒向けに出版されておらず、教会にラテン語の聖書が備えられていただけでした。古い日本のカトリック信徒が最初に目にした日本語の聖書は、日本聖書協会が出したプロテスタント向けの聖書だったのではなかったかと思います。

そのような状況でしたので、「説教」というものが重要になってくるわけです。中世ヨーロッパの大半の民衆は文盲であったでしょうから、司祭が上の写真のような説教壇に登ってステンドグラスを指し示したり、聖人像を見せながら、身振り手振りを駆使して神や神の国を説明したのでしょう。

こうして、神を民衆に説明できるのは教会だけだ、教会は神の国とこの世の民衆をつなぐ唯一の手段だ、という図を描いたわけです。それで、上の写真のような大げさな説教壇を築いて教会の権威や意義、価値を強調した、というわけです。

ですから、民衆はすなわち知識階級である、という前提に無理を感じない時代に現れたプロテスタント教会は、その教会の存在自体に矛盾を孕んでいるのではないか、と言えるのではないでしょうか。聖書全巻を自由に読むことができ、教理も先覚の教えをも自由に学ぶことができます。教会も説教も、そのために必要であるとは言えません。

しかしその結果、どうしても教会に行って画一化された無個性な要素の一つに成り下がりたいと希望するならば(実際、そういう人は実在しますから)、カトリック教会や正教会へ行けばいいわけです。

ぼくは、今までに、おそらく数千の説教を聴いてきたと思いますが、これは良い、もっと聴いていたい、と感じた説教は一回だけだと思います。大学で聖書学を教えておられる先生が、特別講壇として講壇に立たれたときの説教で、バビロン捕囚後のイスラエルの生活の様子などについてのお話だったと記憶しています。お話の内容もよかったのでしょう、話し方、話の進め方、はっきりした主題、聞き取りやすさなど、いろいろ魅力的な要素が相まって、その結果が「良い説教」だという評価につながったのだと思います。あのような素晴らしい説教には今後出会うことは無いでしょう。30分ぐらいの説教でしたが、長いとは感じませんでした。

第一、どの牧師も神父も、下手なくせに説教が長すぎます。長くて5分、短ければ1分で十分なのです。そもそも、なぜ説教をしなければならないのか、を理解している牧師は少ないと思います。単立教会のハラスメント牧師は別かもしれませんが、牧師が説教をする理由は、信徒に牧師としての適性を評価してもらうためです。右寄りに、あるいは左に寄りすぎていないか、子供の教育に不適当なことを言い出さないか、脱線しすぎないか、長すぎないか。牧師は説教で信徒に評価されているのです。

それを知ってか知らずか、不本意にもアウェイに赴任させられた東神大出の若い牧師が、説教中、信徒席のほうに気を取られている様子で、やけに汗を拭いているな、と思っていると、とうとう途中で止めて、講壇を降りてしまった、ということがありました(笑)。

どの教派の教会であれ、本質的な意味において説教などというものは不必要になってしまっている。これが現実です。説教がいらないということは、すなわちキリスト教という宗教も不必要だということです。

義援金のこと

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episcopalchurch.org

義援金」とは何でしょうか。

ja.wikipedia.org

には、

寄付(きふ、英: donation)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること。災害の際に被災地・被災民へ送られる義捐金義援金(ぎえんきん)も寄付の一つである。経済において、寄付は福祉に係る費用の一部を担う重要な経済活動でもある。また、教育機関(学校や博物館、図書館など)や医療機関などに寄付することを寄贈(きぞう)、宗教施設に寄付することを寄進(きしん)と称することもある。 

という説明があります。機会があれば義援金に協力しよう、と考えている人、あるいは、すでに協力した、という人がおられるかもしれません。

しかし、どの団体を通じて協力するのかを考えることが必要です。一度ネットを検索して調べて見てください。いつまでたっても日本語がたどたどしいあの女性歌手が広告を担当している、ある団体は、寄付された金額の20パーセントを手数料として差し引く、と公言しているようです。一億円に対して二千万円は取り分としますよ、ということですね。「手数料」の意味は、おそらくは、銀行に支払う「送金手数料」という意味ではなくて「利益分」という意味なのでしょう。考えてみれば、こんなに楽な仕事はなかなかないかもしれません。「救済」という看板を挙げさえすれば自動的に金が集まってくるわけですから。大衆の偽善的欲求に訴えかければ良いだけです。それに、考えてみればテレビCMで募金をお願いするなんて矛盾していますよね。でも、金儲けであるというのなら納得できます。義援金の募集と言いながら、実際には金を右から左へ渡して利益を得る「金融業」だというわけです。

一方、日本赤十字社のホームページには、

www.jrc.or.jp

日赤に寄せられた義援金は手数料等の経費を引くことなく、被災県に設置される配分委員会を通じて全額が被災者に配分されます。 

とあって、同社は義援金事業によって利益を得ているわけではない、ということがわかります。

 

しかし、中にはこんな実用例もあるようです。

www.news-postseven.com

引用してみましょう。

だが、被災市民の復興を願った人々の思いは、シロアリの悪知恵によって裏切られることになる。

 浦安市義援金は被災者に一切分配されることなく、なんとそのまま自治体の懐に入ったのである。この驚くべき事実を告発するのは、折本ひとみ・浦安市議会議員(無所属)である。

「市の財政課に義援金について訊くと、『市の一般会計予算に入れる』というのです。つまり、義援金は被災者に分配するのではなく、市の事業に使うということ。担当者は『市の事業に使うものであることは、寄付する当事者に口頭で説明している』といいますが、そんなことはありません。

 事実、私が所属するボランティア団体は、市の要請を受けて義援金を出している。あくまで浦安で被害に遭った8000世帯に義援金が行き渡るようにと考えたからです。とんでもない裏切り行為ですよ」

 浦安市の財政課に尋ねると、平然と言い放った。

浦安市では、義援金は市の災害復旧に活用することになっています。そのために義援金を一般会計で預かっている。このことは、今秋に公開される平成23年度予算の決算書に記載される予定です。義援金の用途は道路などの災害復旧に決まっているので、問題ありません」

千葉県浦安市が、赤十字から受け取った震災義援金3.1億円を、市庁舎の改築と花火大会の費用に充てたというのですから驚きです。とても公共団体のすることではないと感じますよね。集まった義援金が「100%直接」届けられたからといって、それだけでは安心はきない、というところが現実、ということになるようです。

 

さて、ではキリスト教の教会の献金はどうでしょうか、献金って何に使うのでしょうか、考えたことありますか? 自らの能力を持って稼いだ収入は、自分自身の責任で、意味のある使い方をしなければなりません。大丈夫ですか、考えて見てください。

聖書をよく読めば、パウロは自分の腕で職人として働きながら宣教活動を行ったと記されているのであって、信徒の寄付で食べていたわけではありません。ですから、聖書的に観察するのであれば、信徒の献金を当てにして、それだけで生活をしている現代の牧師や神父は、偉そうにしている乞食に過ぎない、ということになるのです。キリスト教徒の皆さんは、毎週正装して詐欺師の家へ罷り参っては乞食に平伏し,あまつさえ金をむしり取られているにすぎないわけです。バカみたいな話ですよね。

お金は大切に使いましょう。どうしても偽善者的に金を使いたいと言うのであれば、神父や牧師に恵んでやるよりも赤十字に送金しましょう。そのほうが、あなたの満足感ばかりでなく、実際の社会貢献として生きた金になるでしょう。金が喜びますよ。ただし、配布先がどのように使用するのかまで見届ける必要はあるようです。

そう言えば、キリスト教の釣り書も「救済」でしたよね(笑)。

政教分離原則に違反

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ja.traasgpu.com

 

即位儀式に抗議 キリスト教団体「政教分離原則に違反」

www.asahi.com

という記事があります。天皇家の代替わりに際して、その宗教的儀式に国家が関わるのは憲法違反ではないのか、と抗議した、ということです。

たしかに、報道されている金額を見ますと、ちょっと常識の範囲を超越しているのではないか、とも感じます。

しかし、日本の神道神官の長である天皇の存在を、国民の総意に基づいて認めている事実がある以上、ある程度は仕方ない、と納得できる範囲だろう、と判断することは不可能ではないでしょう。それに、大嘗祭など、一連の儀式は「布教活動」であるとは思えません。

宗教色が全く伺えない国家運営を実践する、となると、共産主義の国家、社会主義の国家へ向かうしかないのではないでしょうか。しかし、中国や北朝鮮を見てみますと、元首を神とする宗教なのではないか、とさえ思えないでしょうか。

国家運営と宗教は完全に分離はできないのです。

 

トップの写真はアメリカのワシントン大聖堂です。

ja.wikipedia.org

アメリカは、日本と同様、厳格な政教分離の原則を謳っているようですが、この、聖公会の大聖堂は国立の大聖堂で、英語では「Washington National Cathedral」と表現されています。

cathedral.org

大統領の就任式や葬儀などの国家行事もこの聖堂で行われます、上記Wikiでは

さまざまな国家行事にも使われており、アイゼンハワー大統領(1969年)、レーガン大統領(2004年)、フォード大統領(2007年)、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(2018年)の葬儀もここで行われた。 

と説明されています。 

即位儀式に反対している、日本のキリスト教団体の皆さんは、このワシントン国立大聖堂についてはどのように感じているのでしょうか、やはり政教分離の原則に反するから反対だということになるのでしょうか。日本の大嘗祭が、キリスト教形式の、たとえば収穫感謝礼拝のような様式で行われるとしても、やはり反対なのでしょうか。

 

しかしながら、何を表現することも自由です。憲法において保証されている権利でもあります。しかし、いかがでしょうか。一方で宗教法人として税の優遇措置を受けながら、国家が他の宗教に偏り気味だと批判して説得力が生じるでしょうか。

宗教法人への優遇措置をなくせば、4兆円の財源が生まれる、という試算もあるようです。これは、厳格に考えれば政教分離に反することになる、と言えないでしょうか。

www.news-postseven.com

 

僕であれば、まず宗教法人格を返上した上で、そういうことは言うだろうと思います。

対立教皇

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www.occidentaldissent.com

「対立教皇」という言葉をご存知でしょうか。対立教皇 - Wikipedia によれば、

対立教皇(たいりつきょうこう、AntipapaAntipope)は、キリスト教歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。

通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。

とあり、正式に立てられた教皇を、教皇と認めたくない人たちが、別の人物を教皇として擁立した場合などを言うようです。

また、神聖ローマ帝国と教会との関係において、政治的な動機によっても対立教皇が出現した、と説明されています。

いずれにせよ、おおよそは近世以前の話であって、現代社会とは無縁のお話、と思われがちですが、現代、今まさに対立教皇は存在するようです。

en.wikipedia.org

聖使徒カトリックパルマリアン教会」(World Religions and Spirituality のページ)

という教会です。スペインにある教会のようですが、上記の説明によれば、教皇として認められる教皇は、パウロ教皇までの教皇であって、それ以降、ヨハネ・パウロⅠ以降の教皇教皇として認められない、として、独自の教皇を立てているようです。

動画がありましたのでご紹介しましょう。聖週間(復活祭前の一週間)を記録した映像のようです。

 

いかがでしょうか、教皇三重冠、教皇三重十字があしらわれた司教杖など、現在の典礼では使われなくなってしまっている古式が再現されていることがわかります。

しかし、なんといいますか、この何とも言えない違和感、ぎこちなさ、おもちゃ感というのか、心がこもってない、というか、いやいややっている、というか、偽物感であふれてますよね。やはり、本場サン・ピエトロの重厚感を再現することは無理のようです。

再び 対立教皇 - Wikipedia を読んでみましょう。

しかし、単純に対立教皇といっても、あくまでも後世の判断による部分が多く、同時代の人々はどちらが対立教皇でどちらが正当な教皇だとはっきり区別していたわけではない。彼らにとっては、当然自分たちが支持する人物こそが正当な教皇であり、支持していない人物は対立教皇であった。

彼らにとって、あくまで正当な教皇聖使徒カトリックパルマリアン教会の教皇であって、ローマ・カトリック教会教皇は偽の対立教皇でしかないのです。数の問題では無い、というわけです。

プロテスタント教会も同じことで、ひょっとするとカトリック教会のほうが正しいのではないか、とは考えません。どの教会であれ、他の教会が間違っていて、自分たちの教会だけが正しい、と考えているのです。

これを、穏健な立場にいる人たちは、神はそれぞれの人に合った信仰の形態をその人にお与えになっているのだ、と解釈するようですが、それは詭弁です。一神教の神は絶対的な存在であるはずです。洋の東西、老若男女を問わず、ただ一様でなければ理屈に合わないでしょう。

おわかりでしょうか。一神教の宗教は、一神教である、というその理由だけですでに破綻しているのです。

キリスト教は本当に世界最大の宗教なのか

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モルモン教の神殿

churchofjesuschristtemples.org

 

キリスト教は世界で最大の信者を擁する宗教である」と言われます。ネット上にも、「キリスト教は世界で最大の宗教なのに、なぜ信仰しない人がいるのだろうか」などという発言をみることがあります。

キリスト教は世界で最大の信者を擁する宗教である』

本当にそうなのでしょうか。

ja.wikipedia.org

から、「信徒数」の項を見てみましょう

キリスト教は世界で最大の信者を擁する宗教であり、2002年の集計の信者数は下記の通りである

同じ集計によれば、他の宗教の信者数は下記の通りである

とあって、確かにキリスト教全体では約20.4億人であって、第二位のイスラム教徒の16億人を上回っています。

しかし、その数え方には違和感があります。正教徒はカトリックプロテスタントを「異教徒」と呼んで彼らの教会をキリスト教とは認めていません。カトリックも同じようなものですし、プロテスタント教会は正教やカトリック偶像崇拝者として蔑んでいます。また「その他教派」には三位一体を否定するコプトエチオピア教会などの異端、さらにはエホバの証人、モルモン、統一協会などの「現代の異端」と呼ばれる団体も含まれているでしょう。

ある場合では敵対視し、酷ければ悪魔のように扱うのに、「世界一の信者数」を強調したい場面では、全部仲良くひとくくりにして勘定するわけですよね。

キリスト教」と一口に言っても、実際には、カトリックと正教とプロテスタントはそれぞれ別の宗教なのです。そのように別にして数えるならば、第二位のムスリム:16億人に劣るばかりか、第三位のヒンドゥー教徒:10.5億人と比較しても、大きくは上回ってはいない、ということになります。

キリスト教は、世界最大の信者数を有する一つの宗教であるとは言えない、ということがおわかりいただけたでしょうか。無理にでもそう言いたいというのであれば、統一協会やエホバ、モルモンも仲間だと認めなくてはならない、ということが現実だというわけです。

「祭服姿で少年に性行為」キリスト教の本質

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bunshun.jp

過去記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

などでもご紹介しましたが、カトリック教会の神父が少年に性的虐待を行う事例は海外に限ったことではありません。サレジオ会が経営する日本の施設においても同様の虐待が行われていた、ということです。

これが、聞いたこともないような新興宗教の経営する施設での話だとしたら、マスコミと世論の猛烈な批判を受けて、すでにアウトになっているのではないでしょうか。カトリック教会という歴史ある組織だから、それほどの大騒ぎにならずになんとなく済んでいるのだと思います。

神父が祭服姿のままで少年を性虐待した、ということですから、それはミサの始まる前に行われたのでしょう。少年を辱めたその口で福音書を読み、説教をおこない、少年を虐げたその手でパンを聖体に変化して信徒の口へ授けたということです。汚らわしいことです。そういうことができてしまう、ということが現実なのです。これがキリスト教の「信仰」だということなのです。

今回、冒頭でご紹介した文春の記事で驚くべきは次の箇所です。読んでみましょう。

気持ちの整理のために匿名で書きつけていたブログを読んだ東京サレジオ学園の関係者から、「今も添い寝と称して自室に連れ込む職員がいる」という声を耳にした。過去と対峙する気構えで自らの体験を手紙に書き送ったが、教会――学園、修道会(サレジオ会)、中央協議会はいずれも、本格的な調査に乗り出すことはなかった。

 また、

カトリックのみならず、プロテスタントの牧師、仏僧といった宗教者のほか、学校教師、医師、トレーナーなど子どもと接する立場にある多く人が加害者になった事例を見てきた」

という意見も紹介されています。

このような顕著な例ばかりでないでしょう。教役者も信徒も、何かしら様々なストレスに心身を蝕まれているように、僕には思えます。キリスト教の考え方には不条理な要素がたくさん含まれているからでしょう。不自然で不条理な事柄を無理やり信じ込まされていれば、正常な人間であればストレスを感じます。当然のことではないでしょうか。

この被害者のように、自分で決めて捨て去ることができなかった人には、実にお気の毒だった、と申し上げることしかできませんが、今、自由に捨てることができる、賢明な方々には、ぜひ、よくお考えになってはいかがですか、と申し上げたいと思います。

聖書は誤りなき神の言葉であり得るのか

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pixels.com

聖書の無誤性 - Wikipedia に、

聖書の無誤性(せいしょのむごせい、英語Biblical inerrancy)は、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという聖書の教理の前提である。この立場では「歴史と科学の分野を含んで完全に正確」であり、誤りの部分はないと言われる。無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、歴史や科学の分野には誤りがあるとする聖書無謬説(限定無誤性、部分的霊感説)とは区別される。ただし、部分霊感説と無誤性は対立するが、無謬性と無誤性は対立しない

という説明があります。聖書には、何一つ間違いの表現は存在しない、というわけですが、教派によって理解が異なるようです。同Wikiによれば、カトリックは、最終的な権威を教皇の無謬説に置き、正教会公会議の決定に置いている、と説明されていて、聖書そのものが無誤であると定義するのはプロテスタント福音派だけであることを明らかにしています。

僕が所属していた教会はプロテスタントで、旧教派は組合教会ですが、聖書が無誤である、と説明された記憶はありません。

つまり、新旧訳聖書66巻が無誤である、と定義しているのは、プロテスタント福音派だけであって、その他の教会は、聖書が誤りを含んでいるかいないかという考察そのものに意味を置いていない、ということになるでしょう。あえていうのであれば、聖書といえど人間の著作物であって、完全なものではない。完全なものとは神ひとかたのみであると理解している、ということになるでしょう。仮に聖書に瑕疵があったとしても、神にはないのだからそれでよい。これが普通のキリスト教の考え方であるわけです。

聖書には誤りがない、と言い出したのはマルティン・ルターなのでしょうが、彼は、カトリック教会が教会の権威を悪用することを批判して、教会や教皇であるよりも、聖書に信仰生活の規範を置くべきだ、と言ったわけであって、聖書にひれ伏せ、と主張したわけではないと思います。

また、「批判」として、次のような引用があります。

批判者は聖書の無誤性の教理は、歴史的に教皇無謬説の代用品だったという。「マルティン・ルターが無謬の教皇の権威を打倒した時に、彼は新しい権威、無謬の聖書を作り出した。これは一般に宗教改革の教会で受け入れられた。そして聖書はプロテスタントにとって紙の教皇になった。」

そもそも、「新約」と「旧約」が存在する事自体、観察結果そのものが正しくなかったから、ということになるのではないのでしょうか。

聖書に誤りがないのであれば、イエス様本人が「神殿を破壊されても三日後には再建できる」と発言しているのですから、「キリストの体」を自負するキリスト教徒は、いますぐエルサレムへ馳せ参じてイスラームから岩のドームを奪還し、唯一神殿を建て直さなければならないことになってしまいます。

福音派が聖書無誤を主張するのは、結局什一献金の根拠作りのためでしょ、というのは妄想に過ぎないのでしょうか。