キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

無教会のススメ

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過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でもご紹介しましたが、再度、内村鑑三の「問答二三」という作品から一部を見てみましょう。

 問、他人たにんみちを説くに如何いかなる方法はうはふるべきや
 答、かつ如此かくのごとき事をこゝろみし事なし、こゝろみてそのはなは馬鹿気ばかげきつたる事をみとめたれば全然ぜん/\之を放棄はうきせり、みちおこなことみちく事なり、殊更ことさらつとめて他人たにん教化けうくわせんとするが如きはこれを為す者の僣越せんえつしめし、無智無謀むちむぼうしようす、る大陽はつとめてかゞやかざるを、ほしは吾人の教化けうくわはかつひかりはなたず、からざるをざればひかるなり、しゆり、しゆれに宿やどときは我はつとめずして光をはなつなり、而してわれより出るしゆひかりわれしんぜずしてしゆしんずるにいたる、しんずる基督教的きりすとけうてき伝道でんだうなる者なり。

 「キリスト教を人に教えるときはどのようにすればよろしいでしょうか」という問に対して、

「そんな馬鹿げたことはしないほうがマシだろう。キリスト教を知らないものがそんなつまらない事をしようとするのだ。考えてみなさい。太陽や星はそれ自身、輝こう光ろうと努力して光を放っているわけではないだろう。光らざるを得ないから光っているのだ。そのように、神の恵みが私を輝かすとき、世の人はその光を見て、私をではなくて神を信じる。それが私の考えている伝道である。」

と答えた、とあります。

キリスト教をよく知らないものがキリスト教を教えたがる」

内村のこの観察はただの皮肉ではありません。福音書が伝える最も強いメッセージである「すべての持ち物を捨てる」を軽んじ、儀式や献金を重要視することがキリスト教の本質ではないだろう、と教えているわけです

夏目漱石の著作を読んで、そのように理解してはならない。その箇所はこういう意味だからそのとおりに理解しなさい、と言われたらどうでしょうか、そんなことは馬鹿げたことだと思わないでしょうか。しかし、キリスト教の教会とは聖書をそのように取り扱うところなのです。わざわざ高い金を支払って、思想や理解力を低い位置で固定され、挙句の果てに出来上がるのは、教会の思惑通りに規格化された、何の魅力もない無個性な人でしかありません。

教会へ行ってみたいと考えている人は、キリスト教に興味があるのか、聖書に興味があるのかを整理してみてはいかがでしょうか。キリスト教の儀式や習慣、美術や音楽に興味があって教会へ行ってみたい、という人は教会へ行くしかないでしょうが、聖書を読んでみたい、という場合は教会へ行く必要は全く無いと思います。

本屋で聖書を買って読めばいいだけのことです。その理解がどうであれ、別に他人と同じである必要なんて全く無いわけです。

「無教会」というからには、内村鑑三の主張にカブれていなければならない、ということもありません。また、神の存在を否定するものは聖書を読んではならない、ということも無いと思います。

宗教、就中キリスト教イスラム教と言ったような一神教は、社会主義の原初的な実現形態であるわけです。自由を拒否しているのです。共産党が彼らを弾圧し、彼らがコミュニズムソーシャリズムを忌避する理由は「同族嫌悪」によるものなのでしょう。