キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

カルトに注意

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polemicsreport.com

 

キリスト教にも「カルト」は存在します。「統一教会」「モルモン教」「ものみの塔」などが代表格ですが、「ヨハン早稲田キリスト教会」「摂理(キリスト教福音宣教会)」「KGK キリスト者学生会」なども社会問題を引き起こしている団体です。

これら以外では、単立の教会ですね。ただ一つだけの教会、または10程度の教会で教派を名乗るような教会、「~チャペル」だとか「ジーザス」なんとかが名前に付いてるのは特に要注意ですね。「チャペル」というのは、学校や病院などに付属する礼拝堂を意味する言葉です。そういう本来の意味を度外視して、なんとなくそれっぽいから、というような理由で法人名を決めているというだけで、いかに軽薄な団体かということをうかがい知ることができるでしょう、ということですよね。

また、単立の教会で、牧師が親子など身内ばかりというのはもう最悪でしょうね。親族経営の教会なんて、考えただけで身震いするほど劣悪です。そんなとこを選んで足を踏み入れるほうも、人間としてどうかと思うレベルでしょう。

 

当ブログの記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

なんかも参考にしてください。

 

キリスト教に興味を持って、どこかへ一度行ってみたいんだけど、というような場合で、無難なところはどこかと言えば、カトリック聖公会プロテスタントであれば日本基督教団に所属している教会、あとは改革派、日本キリスト教会バプテスト教会、あたりであれば、絶対にとは言いきれませんが、おそらくは大丈夫でしょう。

また、福音派に属する教会であればやめておきましょう。

福音派」によれば、

のいずれかに所属していれば福音派と見分けられるとのことです。

友達に誘われたんだけど、大丈夫かな、というような場合、上に書いた、「統一教会」「モルモン教」「ものみの塔」「ヨハン早稲田キリスト教会」「摂理(キリスト教福音宣教会)」「KGK キリスト者学生会」のいずれかであれば、絶対にやめておきましょう。危うきに近寄らないことは、君子としての常識です。

次のサイトの記述内容を参考にしてください。

 

それらでは無いんだけど、あんまり聞いたこと無いな、というような場合は、やめて置くのがもっとも賢明ですが、迷う場合は、その団体のサイトを確認して見れば割りとわかります。たいていの場合、牧師紹介のページがありますから見てみましょう。

たとえばこんな感じ

19xx年xx市生まれ。
xx歳で献身して牧師の道を志しxx歳で牧師の按手を受けて、xx夫人と共にxxxチャペル牧師として牧会活動を続けている。
国内はもとより、アメリカ・ヨーロッパ、アジア等で50カ国以上で活躍し、福音宣教に生涯を捧げている。

xxxチャペル創立牧師、xx宣教神学研究院名誉理事、xxx人福音宣教会会長。
19xx年 キリスト教指導者名誉博士
19xx年 名誉宣教学博士
19xx年 名誉神学博士

胡散臭い経歴の見本とも言えるようなものですよね。

どの都道府県のなんという教会のなんという牧師、または監督から按手を受けたのか、そのまえに、どの大学の学士、修士、博士を修めたのか、なぜ書けないのでしょうか。

この経歴では、教会員生活を経験せずに、いきなりxxチャペルを興していることになりますので、牧師というよりは実業家ですよね。金儲け以外の目的は無い、ということです。

海外で活躍した、とありますが、なんという団体でどのような活動をしたのかが不明です。

3つの名誉博士のタイトルがあるように書かれていますが、名誉博士とは、高等教育機関から授与される学位なのですから、その教育機関の名称を書かなければ何の意味もありません。

こういうばかばかしい経歴は、もう見ただけで、この団体の目的は詐欺だな、と見抜けなければなりません。そういう常識的な力をつけること、これは社会人としての義務だと考えるべきでしょう。

ニーチェ

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www.a-inquiry.com

 

しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」というブログがありました。このブロガーはクリスチャンなのだそうです。その中に「【哲学】ニーチェのキリスト教批判:社会的弱者を憐れむのは間違いである」という記事がありましたので一部引用してみましょう。

ニーチェは19世紀ドイツの哲学者で、キリスト教を強く批判したことで知られている人。彼によれば、キリスト教とは社会的弱者が感染する病気のようなものだそうだ。この世で成功する見込みのない負け犬たちは、金持ちや権力者に対する怨念から、神や来世という幻想をつくりだした。自分たち弱者は天国に行き、地獄に落とされた金持ちや権力者が永遠の業火で焼かれるのを見下ろして楽しむのだ。悪党どもよ神の裁きを思い知れ、というわけである。ニーチェはこのようにして、クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。

ニーチェという人は本当に偉い人だったんだなと思います。彼の言うとおり、教会には病人や貧乏人などのマイノリティーで溢れかえっています。

『クリスチャンの意識のうちに潜む「陰湿なよろこび」をえぐりだす。また彼は、貧しい人や病気に苦しむ人、弱い立場にある人を憐れむのは間違いであると主張した。強さこそ正義であると考えたのである。』まさにその通りだと思います。キリスト教宗教改革によって、反社会的な集合に成り下がってしまったわけです。

僕は、弱いことは悪いことではないと感じますが、正しいことでは無いとも思います。聖書にも

エペソ書簡 6:10

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

とありますよね。弱いことは間違い、と言うのは言いすぎかもしれませんが、少なくとも正しい状態だとは言えないでしょう。そして、多くの弱者たちは、憐れんでほしいとは願っていないでしょう。必要なことは、弱い人がその状態でうまく生活していくためのインフラを充実させることです。そしてそれは社会全体が行うべきことです。宗教というのは、いわば「趣味」のようなものに過ぎないのですから、中途半端にしたり顔で口を挟むから話がややこしくなってしまうわけです。

さらに引用してみましょう。

信仰とは、命がけで守るものだ。「イエスなんてただの偽善者だよ」「神様なんているわけない」というようなただの悪口なら言わせておけばよい。しかし、まともな批判には真っ向から立ち向かうべきではないだろうか。キリスト教が今日あるのは、使徒パウロ使徒ヨハネアウグスティヌスやルターなど教養あるクリスチャンたちがわたしたちのために戦い、勝利してくれたからである。マタイ25章の「タラントンのたとえ」を持ち出すまでもなく、知性の賜物を授かっているクリスチャンは、それを眠らせておいてはならない。信仰が攻撃されたときは、反論を提出する義務を負っているとわたしは思う。

 ニーチェの思想は「まともな批判」だと認めざるを得ないようです。

そして次の発言を御覧ください。

「神は死んだ」と主張したニーチェは、発狂して死んだ。ニーチェを崇拝し、社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。わたしたちクリスチャンは、この事実から何かを学び取ることができるのではないか。

キリスト教を批判すると発狂して死んでしまうんだぞ、と言いたいのでしょうか。とても聡明とは言えない、聞き苦しい発言だと思います。

キリスト教徒に発狂する人は一人もいないのでしょうか。それに、『社会的弱者を大量虐殺したヒトラーは自殺した。』といいますが、ヒトラーは教会の協力があったから社会的弱者を大量虐殺できたのですよ。ご存知ないようですね。 ライヒスコンコルダート - Wikipedia をお読み下さい。

ナチスとバチカン も参考になるでしょう。

教皇とは何か

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worldheritagesite.xyz

 

このブログをご訪問下さる人であれば、カトリック教会という教会があることをよくご存知だろうと思います。そのカトリック教会でイチバン偉い人、といえば「教皇」ですね。「ローマ法王」とも言います。この「教皇」という言葉ですが、なんという言葉を翻訳したものであるか、ご存知でしょうか。教皇 - Wikipedia によれば、

教皇(きょうこう、ラテン語: Pāpa[1]、ギリシア語: Πάπας Pápas[2]、英語: The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号[3]。ヴァティカン市国の首長。

とあって、教皇の原語が「Papa」であることがわかります。次の記述に注目して下さい。

ラテン語が公式言語である教会法の正文の中では、教皇は「Romanus Pontifex ロマヌス・ポンティフェクス」(ローマ司教)という名であらわされる。「Pāpa(パーパ)」という呼び方は教皇に対する非公式な呼び方であり、公式な呼び方をすべてあげるなら「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教バチカン市国の首長、神のしもべのしもべ」となる。このような長大な正式名称でよばれる機会はほとんどない

結局、教皇の正しいタイトルは「ローマ司教」であるようです。教皇がローマ司教? と思った人もいるのではないでしょうか。総主教 - Wikipedia から、692年に開催されたトゥルーリ公会議の議決事項の一部を引用してみましょう。

此の神に守護せらるる王城に集會せし一百五十八人(第二全地公會規則三條)及びハルキドン[注釈 2]に集會せし六百三十人(第四全地公會規則二十八條)の諸聖父の定規を再興して議定すること左の如しコンスタンティノポリの寶座は舊ロマの寶座と同等の特典を有し敎會の事に就ては其次に位して尊崇せらる可し其次は大都アレキサンドリヤの寶座其次はアンティオヒヤの寶座其次はイエルサリム城の寶座たる可し。
— 第六聖全地公会(トゥルーリ公会)規則第36条、『聖規則書』九十頁(正教会編集局、明治31年

ローマは五つの司教区(総主教区)の一つであって、教皇はその代表者である司教(総主教)である、ということがわかります。

新都コンスタンティノポリと旧都ローマの総主教には多少の特典があったようですが、他の、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの総主教、の順によれば、権威は同等であったとしても、尊崇の順はコンスタンティノポリがトップであって、ローマに総主教の長とか、使徒の長、ペテロの後継者であるようなことを示す記述があったわけではないことが分かります。

上に貼った写真はローマのラテラノ大聖堂ですが、これは現在でもローマの司教座(総主教座)であって、カトリック教会自身が正教会でいわゆるローマの総主教区であることを否定していない、ということがわかると思います。

そして Papa というのは尊称、もっとわかりやすく言えば愛称であって、ローマとアレクサンドリアの主教に与えられたものです。現状、アレクサンドリアには、トゥルーリ公会議によるアレクサンドリアの総主教区の流れと、非カルケドンであるコプト教会が並立していますが、両者とも主教には Papa という愛称がありますので、これを日本語に翻訳する場合も「教皇」となってしまう場合があるようです。

カトリックプロテスタントは、325年の第一ニケア公会議から787年の第二ニケア公会議までの7つの公会議の議決事項を承認していますが、692年のトゥルーリ公会議を承認していません。承認すれば、自分自身が異端になってしまうからです。しかし、Popeという呼称が、自分自身が造反者であることを証明しているようです。「教皇」という特別の職制を示す単語は無いのです。何ども言いますが「Papa」はローマ主教とアレクサンドリア主教に対する愛称でしかなかったのです。

都合の悪い条項が決定された公会議はその公会議自体を否定する、これではものみの塔モルモン教と同じです。トゥルーリ公会議はコンスタンティノポリ宮殿で行われた重要で正しい公会議なのですから、この会議を認めずに公会議主義を標榜するなどは笑止千万です。

おわかりでしょうか、公会議の決定事項を鏡にして正不正を切り分けるのであれば、キリスト教の教会は正教会だけになります。正教会の共同体から離反したカトリック教会は悪魔の誘惑に負けた造反者、さらにそこから分離した新教会などはキリスト教風味のお遊戯会程度の価値しか無い、ということになるでしょうね。

キリスト教の救いと仏教の救い その2

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www.buddha-heads.com

 

前回記事「キリスト教の救いと仏教の救い」で、キリスト教には条件によっては救われない人がいること、仏教では条件に関わらず、すべての人に救われる可能性があることを説明しました。今回記事では、それぞれ、人はどういう理由で、何から、救われなければならないと言われているのかを考えてみましょう。

キリスト教に於いては、神によって世界が創造されたあと、だんだんに堕落してしまったので、イスラエル民族を選んで、律法を定めて、カナンの土地を与える約束を行い、リーダーとして世界を牽引するように命じました。これが「旧約」です。しかし、なかなかうまく行かないので、神自身がこの世に現れて、犠牲の動物の代わりに自らが死んで、全人類の罪を贖い、救いに至る条件を緩和して、再び神の世界に戻って行きました。これが「新約」です。

まとめますと、神の作った世界で、神の作った人間が、神の作った「悪」を行うため、神が怒るので、キリスト教に入信し、反省したものだけが許されて、死後に、神の国へ迎えられる、ということです。神が、神の罰から人を救う。これがキリスト教の「救い」なのです。

仏教には「神」のような超越した存在はありません。人を救うのはお釈迦様でも阿弥陀様でも無く、人を「無明」の状態から「真如」へと導く、即ち救うものは「」であるとされています。その仕組みを見出した人がお釈迦様だった、ということですね。

まあ、どっちもよく似たようなもの、と言えばそう言えなくも無いでしょうが、マッチポンプ詐欺まがいのキリスト教の救いよりも、仏教の理屈のほうがマシに思えます。

 

キリスト教の救いと仏教の救い

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www.kmw.ac.jp

 

キリスト教も仏教も、「救い」を行う宗教であると言われています。その違いは何でしょうか。

簡単に言うと、キリスト教は、人を、神に罰せられる状態から罰せられない状態にすることを救いであるとし、仏教は、人を、煩悩に満ちた「此岸」から、悟りの世界である「彼岸」へ至らしめることを救いと表現しています。

言葉で説明すると簡単なようですが、それは一体どういう意味? と細かく言い出すと理屈っぽくなってしまって、余計にわからなくなってしまうのですが、両者には決定的な違いがあります。

まずキリスト教の場合を見てみましょう。

ヨハネ福音書 13:26-27

エスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。

裏切り者であるイスカリオテのユダに、その裏切りを早く行え、とそそのかしていることが記されています。

次にマタイの福音書 27:3-5

エスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

 「七回どころか七の七十倍許しなさい」つまり、際限無く許しなさい、と指導したイエス様本人が、自分を害するものは許さなかった。ことさら犯罪に誘導して、彼から神の国を取り上げてしまった、聖書にはそう記されています。

 

次に仏教の場合を見ましょう。「法華経」という、お釈迦様の説教の語り伝えをまとめたお経から引用しますが、本文を引用すると膨大で難解ですので、解説されているブログから引用することにしましょう。

妙法蓮華経提婆達多品第十二

提婆達多というのは、お釈迦様にとってはいとこに当たる人物なのですが、人間的にはいろいろと問題があり、ついにはお釈迦様を殺害しようとまでした極悪人として知られる人物です。
 法華経の大切な教えの一つは、すべての人間の中には平等に仏性があり、それを自覚して菩薩行を積んでいけば誰でも仏に成れる(仏の悟りを得ることができる)ということなのですが、その教えの究極の事例が、提婆達多も将来には天王仏という名の仏に成れると記別を授けたこの品なのです。つまり、お釈迦様の教団の中の人々にとっては、「あの極悪人の提婆達多ですら仏に成れるのなら、誰でもが仏に成れるはずだ。もちろん自分にも・・・。」と思えるわけであり、仏性の平等性というものが明確に理解できるわけなのです。
 ところが、お釈迦様が提婆達多について語ったことは、単に提婆達多でも仏に成れるのだというような話を超えて、提婆達多のお陰で自分は仏に成れたのだとまで説かれたのです。泥土の中から美しい蓮の花が咲き出すように、人間の悪の側面に接したことも悟りの花を咲かせる契機に変えてしまうお釈迦様の智慧が読み取れます。最後の「蓮華より化生せん。」は、そういう意味の比喩でもあるのでしょう。

 提婆達多はお釈迦様を殺そうとした人物でしたが、お釈迦様は彼を断罪しなかったばかりか、彼の行いもまた、私が悟りを得るための働きとなったのだ、と評価し、犯罪者であっても仏性が備わっているのだと説明しています。

 

いかがでしょうか。政治のために創作された宗教であるキリスト教と、ただひたすらに人生を追求するところの仏教には決定的な違いがあります。理屈が一貫しているかどうかです。精神性が破綻しているかしていないかであるとも言えるでしょう。

 

※追記します。

わかりにくかったようで、ご質問をいただきましたのでこちらでお答えさせていただきます。

一つ目のご質問内容

今回、この箇所が理解できませんでした。
『イエス様本人が、自分を害するものは許さなかった。ことさら犯罪に誘導して、彼から神の国を取り上げてしまった』
あの聖書の箇所からここまで読む?大したものです。

イスカリオテのユダに関しては、なぜ彼を神は救わなかったのかという疑問があって、それは、彼が完璧な悪人だったのであって、神が救おうと望んでも、彼自身が徹底的に拒否したからだ、というように説明されるようです。

神が彼を救うことができなかった、というのは、神が全知全能であることと矛盾するのではないか、また、後にかれが後悔して自死していることから、完璧で改悛の余地の無い悪人であったとは言えないのではないか、など、疑問の余地はありますが、一般的なキリスト教会が考えているように、彼が完全な悪人だったとするのであれば、聖書には、神が救えない人物が存在するのだと記述されていることになる。これはおわかりいただけると思います。つまり、この記事ではそのことを言っているのです。

お釈迦様は提婆達多を例に上げて、たとえ無間の地獄に落ちてしまうほどの罪人であっても、取りようによっては良い実を結んだことにならないだろうか、いくら犯罪を犯したとしても、仏性が失われてしまうことは無いのではないか、と教えています。この違いがあるということです。

 

二つ目のご質問内容

『仏教には救いはないが悟りはある』というのを有名な僧侶の言葉として聞いてます。

大乗、小乗、という言葉を聞かれたことがあると思いますが、たくさんの人が大きな船に乗せられて、此岸から彼岸へ導かれる、と表されるのが一乗思想、つまり大乗仏教で、一人乗りの小舟に乗って、自分ひとりだけで一生懸命にオールを漕いで彼岸にたどり着く、と表されるのが小乗(部派)仏教です。この乗り物とそれを与えるもの、これが仏教における「救済」の手段だと説明されているようです。六道輪廻の苦しみから解き放たれること、といえばわかりやすいでしょうか。輪廻とは生死を繰り返すことではなくて、生きている間に繰り返される精神の状態の変化を言います。

宗派によっては「救い」という表現をしない場合があるのかもしれませんが、それほど外れた表現では無いように思います。

仏教における救済 を参照して下さい。

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

エルサレム神殿

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岩のドーム - Wikipedia

 

エルサレムの「岩のドーム」をご存知でしょうか。現在は、サウジアラビアの「カアバ神殿」、同じくサウジアラビアの「預言者のモスク」に次ぐ、イスラムの第三の聖地となっていますが、元来はユダヤ教唯一神殿があったところで、岩のドームの「岩」とは、アブラハムが、息子イサクを神に捧げるための祭壇として用いようとした岩であるとされ、ダビデが契約の櫃を安置し、ソロモンが神殿を建設した場所でした。

エルサレム神殿に関する、イエス様の言動でまず思い出すのは、ヨハネ福音書にある次の箇所でしょう。

ヨハネ福音書 2:13-20

さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。

エス様のころのイスラエルは、外国の偶像崇拝やその習慣が入り込んで、実に混沌とした状態であったのだそうです。福音書では象徴的に「商売の家」と表現されていますが、おそらく、異教の迷信や、多神教的で卑猥な見世物小屋、外国の異教的なお守りや神札、絵札の類などの出店が並んでいたでしょう。また、外国の宗教儀式は、それ自体にエロティックな要素が含まれていたのです。出エジプト記からそのことを知ることができます。

出エジプト記 20:26

あなたは階段によって、わたしの祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所が、その上にあらわれることのないようにするためである』。

出エジプト記 28:42

また、彼らのために、その隠し所をおおう亜麻布のしたばきを作り、腰からももに届くようにしなければならない。

宗教儀式といえば、周辺の異教の国々では、神官の隆々と鍛え上げられた肉体を見て楽しみ、その陰部の状態の変化を見て楽しむ娯楽ショーだったのです。しかし、イスラエルの宗教からはそのような要素を除外しなくてはならないよ、と言っているわけですが、そう言って禁止せねばならなかったということは、実際にはそういうことがあったからなのでしょう。宗教儀式には男性しか参加できませんでしたので、これは男性同性愛に関わる事柄です。現在でも、ユダヤ教で男性同性愛が禁止され、女性同性愛が大目にみられているのはこういう記述に基づいてのことでしょう。男性の同性愛が禁じられている理由は、同性愛そのものが問題視されたわけではなくて、儀式の娯楽化を防止するためだったのだと言えると思います。

列王記や歴代史を読めば分かる通り、イスラエルが純然たるユダヤ教国家であった期間は長く続いていません。周辺諸国の異教の習慣に染まりきっていたのです。イエス様のときにもそうだったのでしょう。

エス様が言い放ったとおり、直後に起こったユダヤ戦争によって唯一神殿は失われてしまいました。そしてその後、少なくとも現在まで2000年間、一度も再建はされていません。唯一神殿で燔祭を行うことが出来ない現状は、実質的には、ユダヤ教は根絶されてしまった状態だとも言えるでしょう。

香炉を弄んだものを打って殺してしまう、それほどの情熱は宗教からは無くなってしまっている。宗教が娯楽や欲望のはけ口でしか無いのであれば、もはや不必要である。イエス様はそう言いたかったのです。神殿の破壊は不必要となった悪しき習癖である宗教を、三日で再建されるものは本来あるべき人間性の回復を象徴しています。

エス様が本当に望んだことは、宗教の根絶だったということです。

 

宗教と博打

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investment.tvshoppings.com

 

『宗教と博打の信条、「他人の不幸は蜜の味」』というブログ記事を見つけました。

hikikomorilife.net

一部引用してみましょう。

博打の他にも、「他人の不幸で飯を食う」ビジネスには、ブラック労働のピンハネ業や詐欺など犯罪行為を持ちかけて「収入」の一部をせしめる稼業、そして宗教も挙げられるでしょう。
ここで注目したいのが、宗教。こいつが一番の天才的「貧困ビジネス」じゃないかなと思っています。
悩みを抱えている人って、自力での解決が出来ない程に追い詰められていて、そこにつけ込んで「あなたが幸せになるにはここしかない」といった心境になる様、「思考の刷り込み」を行う。ブラック企業の離職抑制策にも応用されている手法です。
嵌まっちゃった彼らに共通するのが、「苦しむことを歓びのように捉えてしまうこと」。冷静に考えて「やらなくていいこと」をムキになってやりたがる、強要する。時間と労力の効率向上策について意識することすら無い。苦しむことだけが解決策だと思い込み、周囲に強要する。正に苦労基地外。「使う側」にとっては都合のいいカモです。

おっしゃる通りだと思います。『「あなたが幸せになるにはここしかない」といった心境になる様、「思考の刷り込み」を行う。』まさにその通りです。

僕の通っていた、伝統的で穏健と評価される教会でさえ、少しでも多くの献金を行えば、その分天に宝を積むことになる、と言っていました。キリスト教なんて、全てブラック企業なんですよ。信者は刷り込まれて従順になった教会のカモに過ぎません。情緒が不安定で、常識的な理屈を捨て去った異常者。そうとしか見えません。