キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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キリスト教の救いと仏教の救い

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キリスト教も仏教も、「救い」を行う宗教であると言われています。その違いは何でしょうか。

簡単に言うと、キリスト教は、人を、神に罰せられる状態から罰せられない状態にすることを救いであるとし、仏教は、人を、煩悩に満ちた「此岸」から、悟りの世界である「彼岸」へ至らしめることを救いと表現しています。

言葉で説明すると簡単なようですが、それは一体どういう意味? と細かく言い出すと理屈っぽくなってしまって、余計にわからなくなってしまうのですが、両者には決定的な違いがあります。

まずキリスト教の場合を見てみましょう。

ヨハネ福音書 13:26-27

エスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。

裏切り者であるイスカリオテのユダに、その裏切りを早く行え、とそそのかしていることが記されています。

次にマタイの福音書 27:3-5

エスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

 「七回どころか七の七十倍許しなさい」つまり、際限無く許しなさい、と指導したイエス様本人が、自分を害するものは許さなかった。ことさら犯罪に誘導して、彼から神の国を取り上げてしまった、聖書にはそう記されています。

 

次に仏教の場合を見ましょう。「法華経」という、お釈迦様の説教の語り伝えをまとめたお経から引用しますが、本文を引用すると膨大で難解ですので、解説されているブログから引用することにしましょう。

妙法蓮華経提婆達多品第十二

提婆達多というのは、お釈迦様にとってはいとこに当たる人物なのですが、人間的にはいろいろと問題があり、ついにはお釈迦様を殺害しようとまでした極悪人として知られる人物です。
 法華経の大切な教えの一つは、すべての人間の中には平等に仏性があり、それを自覚して菩薩行を積んでいけば誰でも仏に成れる(仏の悟りを得ることができる)ということなのですが、その教えの究極の事例が、提婆達多も将来には天王仏という名の仏に成れると記別を授けたこの品なのです。つまり、お釈迦様の教団の中の人々にとっては、「あの極悪人の提婆達多ですら仏に成れるのなら、誰でもが仏に成れるはずだ。もちろん自分にも・・・。」と思えるわけであり、仏性の平等性というものが明確に理解できるわけなのです。
 ところが、お釈迦様が提婆達多について語ったことは、単に提婆達多でも仏に成れるのだというような話を超えて、提婆達多のお陰で自分は仏に成れたのだとまで説かれたのです。泥土の中から美しい蓮の花が咲き出すように、人間の悪の側面に接したことも悟りの花を咲かせる契機に変えてしまうお釈迦様の智慧が読み取れます。最後の「蓮華より化生せん。」は、そういう意味の比喩でもあるのでしょう。

 提婆達多はお釈迦様を殺そうとした人物でしたが、お釈迦様は彼を断罪しなかったばかりか、彼の行いもまた、私が悟りを得るための働きとなったのだ、と評価し、犯罪者であっても仏性が備わっているのだと説明しています。

 

いかがでしょうか。政治のために創作された宗教であるキリスト教と、ただひたすらに人生を追求するところの仏教には決定的な違いがあります。理屈が一貫しているかどうかです。精神性が破綻しているかしていないかであるとも言えるでしょう。

 

※追記します。

わかりにくかったようで、ご質問をいただきましたのでこちらでお答えさせていただきます。

一つ目のご質問内容

今回、この箇所が理解できませんでした。
『イエス様本人が、自分を害するものは許さなかった。ことさら犯罪に誘導して、彼から神の国を取り上げてしまった』
あの聖書の箇所からここまで読む?大したものです。

イスカリオテのユダに関しては、なぜ彼を神は救わなかったのかという疑問があって、それは、彼が完璧な悪人だったのであって、神が救おうと望んでも、彼自身が徹底的に拒否したからだ、というように説明されるようです。

神が彼を救うことができなかった、というのは、神が全知全能であることと矛盾するのではないか、また、後にかれが後悔して自死していることから、完璧で改悛の余地の無い悪人であったとは言えないのではないか、など、疑問の余地はありますが、一般的なキリスト教会が考えているように、彼が完全な悪人だったとするのであれば、聖書には、神が救えない人物が存在するのだと記述されていることになる。これはおわかりいただけると思います。つまり、この記事ではそのことを言っているのです。

お釈迦様は提婆達多を例に上げて、たとえ無間の地獄に落ちてしまうほどの罪人であっても、取りようによっては良い実を結んだことにならないだろうか、いくら犯罪を犯したとしても、仏性が失われてしまうことは無いのではないか、と教えています。この違いがあるということです。

 

二つ目のご質問内容

『仏教には救いはないが悟りはある』というのを有名な僧侶の言葉として聞いてます。

大乗、小乗、という言葉を聞かれたことがあると思いますが、たくさんの人が大きな船に乗せられて、此岸から彼岸へ導かれる、と表されるのが一乗思想、つまり大乗仏教で、一人乗りの小舟に乗って、自分ひとりだけで一生懸命にオールを漕いで彼岸にたどり着く、と表されるのが小乗(部派)仏教です。この乗り物とそれを与えるもの、これが仏教における「救済」の手段だと説明されているようです。六道輪廻の苦しみから解き放たれること、といえばわかりやすいでしょうか。輪廻とは生死を繰り返すことではなくて、生きている間に繰り返される精神の状態の変化を言います。

宗派によっては「救い」という表現をしない場合があるのかもしれませんが、それほど外れた表現では無いように思います。

仏教における救済 を参照して下さい。

 

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