キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

五つのソラ

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www.drivethruhistory.com

 

プロテスタント教会の信者は「五つのソラ」という言葉をご存知だと思います。10月31日の宗教改革記念日の説教で取り上げられたりしますが、子供の頃は「五つの空」と聞こえて不思議に思っていたことなど思い出します。

五つのソラ」とは

  1. 聖書のみ
  2. 信仰のみ
  3. 恵みのみ
  4. キリストのみ
  5. 神の栄光のみ

それぞれの説明は 五つのソラ - Wikipedia をごらんいきただきたいのですが、今回取り上げる問題は 「1.聖書のみ」です。

「聖書のみ」とは、信仰生活に関わる全ての基準と規範は、聖書だけに求める、ということで、Wikiによれば、「ルターは、教皇も教会会議も最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであると主張したのである。そして、カルヴァンはルター以上に強調した。」とあります。

三位一体やクリスマスの日付など、聖書に基いていない事柄は何かと言い出すとボロボロ出てきそうなのですが、決定的な事柄として「ニケア信条」があります。

日本基督教団上尾合同教会のホームページから「父と同質であって・・・」という記事をご紹介します。一部引用しましょう。

ニケヤ信条の中で最も注目しなければならない言葉はわたしたちの主イエス・キリストが「父と同質」と言い表わされているところです。原文では「ホモウーシオス」と言うギリシャ語ですが、これは外形の姿かたちは違っても同じ実質、あるいは本質を持つと言うことで、父・子・聖霊が「三位一体」と言うときの「一体」をあらわすことばです。これは聖書にはないことばですが、このことばによって主イエス・キリストの真の性格を正しく表現しようとしています。

 「これは聖書にはないことばですが、」と、あっさり説明していますが、信仰の宣言内容に聖書を基準にしない内容が含まれているということは由々しき事実です。

ニケア信条は、上記のルターによる言葉で否定されているところの「教会会議」で決められたもので、カトリック教会では「聖書と聖伝」のうちの「聖伝」に含まれています。

「聖書のみ」といいながら「ホモウーシオス」を認める矛盾を説明できない、これはプロテスタント教会の最大のウィークポイントだと言えるでしょう。

これは個人的な見解ですが、その他には毎週日曜日の礼拝があるでしょう。正教会カトリック教会は、ルカ福音書の次の記述に従って礼拝を行います。

ルカ福音書 22:19

またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

プロテスタントでも同じだよ、と思われたでしょうか。違います。プロテスタント教会ではすべての主日礼拝で聖餐式を行いますか?行いませんよね。聖公会を除けば、聖餐式を行うのはせいぜい月に一度だけ、甚だしきは年に一度、イースターの礼拝でだけ聖餐式を行う教会もあります。福音書によれば、礼拝を行うのは聖餐式を行うためであって、説教や賛美歌はその付け合せに過ぎないはずです。

また、賛美歌の歌詞を一つ一つ検証するのであれば、聖書にはない表現が見つかるのではないでしょうか。

「五つのソラ」を言い出した当時は、カトリック教会の状況が酷かったのでしょう。めちゃくちゃだと言えるほどだったのだと思います。それで改革者たちは、「聖書のみ」と言ってすっきり決着したように思ったのでしょうが、実際はそううまくは行きませんでした。

感情に任せて極論を展開してしまった結果、傷口が広がってしまったということですね。キリスト教の理屈なんて、情緒的な子供だましに過ぎないというところが現実です。

アブラハムの死生観

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www.workingpreacher.org

 

創世記から、サラの死に際しての記述を読んで見ましょう。

 

創世記 23:1-4

サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

何事にも終りがあるように、人生にも終りがある。アブラハムはそのことを知っていたので悲しみ泣いたわけです。

 

前後しますが、次にイサクの逸話を確認しましょう。

 

創世記 22:9-11

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

アブラハムが 死後の世界で、再びイサクに相まみえる可能性があるのであれば、何の犠牲をも払おうとしていないことになってしまいます。

この子を屠って神に捧げれば、イサクは完全に無に帰してしまうのだ、と理解しているからこそ、アブラハムは神に従ったと言えるのです。

でも、アブラハムは死後天国に迎えられたと書いてあるよ、と思う人もいるでしょう。確かめて見ましょう。

 

創世記 25:7-8

アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。

 

「その民に加えられた」が天国に迎えられた、という意味、あるいは、新約が成立するまでのあいだ、静かな眠りに入り、復活の予定の列に加わった、と説明する場合があるようですが、無理がありますよね。もしそういうことを言いたいのなら「死んで」とは言わないでしょう。

 

次の記事を読んで見て下さい。

plus.chunichi.co.jp

 

しばしば地震による津波の被害を受ける地域で、神社や仏閣がその被害に合わなかった、という内容なのですが、記事にもあるように、地震が発生したら、津波の危険を逃れるため、この位置にまで走って来なさい、という印として神社やお寺を立てたのだということです。

おわかりでしょうか、「その民に加えられた」モーセとは、この神社のことです。モーセ自身は「死んで」しまったが、その功績は生きている民の間に語り継がれて、活き活きと役に立っている、ということなのです。

死んでも死なない、とか、復活した、とか言うところの本当の意味はこのことです。たとえ「誰が」ということは忘れられてしまったとしても、このようなことの積み重ねが社会を良くして行くのだということです。

「信仰」とはこのようなことです。何百年という積み重ねがあってこそ、社会に役立つ結果を得ることができます。明治から五、六代続いた程度ではダメだということです。寝るにつけ、起きるにつけ、家族も地域も同じ神を礼拝し、祭りに参加し、新しい命を喜び、死者を悼み、古き教えを尊ぶ。日本にはそのための神仏がいるのです。

アブラハムの生き様から、それを知ることができると思います。

十戒

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www.myjewishlearning.com

 

十戒」を知らないキリスト教徒はいないでしょう。教派によって内容が少し違うことはご存知でしょうか。Wikiから引用してみましょう

 

正教会聖公会プロテスタントルーテル教会以外)の場合

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

 

カトリック教会・ルーテル教会の場合

わたしはあなたの主なる神である。

  1. わたしのほかに神があってはならない。
  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
  4. あなたの父母を敬え。
  5. 殺してはならない。
  6. 姦淫してはならない。
  7. 盗んではならない。
  8. 隣人に関して偽証してはならない。
  9. 隣人の妻を欲してはならない。
  10. 隣人の財産を欲してはならない。

 

理由はともかくとして、十戒には2種類あるようです。そして、信者は、各々が所属している教会が定義するところの十戒を、これが十戒だと考えているでしょう。その他にべつの十戒があることはおそらく知らないでしょうし、知っていても別の十戒が正しい十戒なのではないだろうか、とは考えないでしょう。

聖書に、モーセが神から直接伝授したという十戒の内容が明確に記されているにも関わらず、十戒の定義には二通りあるのが現実です。

それは別の解釈が間違っているだけだ、ということは簡単です。ですが、双方ともそういわれても、ああそうか、とは納得しないでしょう。

教会グループ毎に一つの事柄であっても解釈が異なってしまうのは、聖書からは唯一の真実を導き出すことが出来ないからです。教義は教会の都合で決まるもの。実在しない神からは、何の都合も真実も導き出すことができないのです。

神様ってこんな方だよね。そんなことはしないよね、などと話している内に神のイメージは変更されていくのです。ある人と、別の人にとっての神のイメージは全く別のものといえるほど異なったものです。

神が仮定でしかない証拠です。

ゲイが減ってよかった

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www.excite.co.jp

少し前の話なんですが、米フロリダのオークランドで、ゲイが集まるクラブで銃乱射事件があったあと、牧師が礼拝で「ゲイが減って良かった」と発言したのだそうです。一人残さず皆殺しにすればよかったのに、とも発言したのだとか。まるで害虫駆除の感覚ですね。

しかし、キリスト教徒は、ゲイを見つけたら殺すようにと神から命じられている、と考えています。レビ記に次のような記述があるからです。

レビ記 20:13

女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。 

 「その血は彼らに帰するであろう。」とは、その男を殺しても、殺人罪では裁かれないよ、という意味です。たとえこの世の裁きがあったとしても、神が守って下さる。正義を行えば、来世での冥福が約束される。これがキリスト教徒の「狂信」だということです。

ロシア正教においても同様にゲイを殺戮する方針のようです。次の記事を御覧ください。

ロシアで同性愛告白の男性が暴行死、背景に見える政治と宗教 | ロイター

 

しかし、もしもキリスト教の牧師がゲイであったらどうなるでしょうか。

voiceofwind.jugem.jp

自分のゲイを隠蔽するために、反同性愛運動の指導者になってゲイを叩くわけですね。いかにも狡猾で卑怯です。サクラメントの牧師も実はゲイなんじゃないでしょうか。

 

そして極めつけがこれ

www.newsweekjapan.jp

 

なんだかんだ言って、結局キリスト教ってゲイの話題でもちきりですね。性的に堕落したイロキチガイの巣窟だったりして(笑)。

 

 

キリスト教団体で性的虐待

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koriworld.com

 

 キリスト教会による性的虐待は、今始まったことではないのですが、今回はオーストラリアのキリスト教団体による性的虐待が報道されました。

 

youtu.be

 www.huffingtonpost.jp

 

カトリック聖職者の独身主義が問題の一因だと指摘されているのだそうですが、被害存命者の64.3%は男性だと言うのですから、教会における性的犯罪の大半は、そもそも結婚したくない、できない、同性愛の聖職者によって行われているのです。ですから、結婚していることがカトリック司祭になるための最低条件だ、ということにするなら多少の効果はあるかもしれませんが、結婚を許可するかどうかが犯罪の抑止に役立つかどうかというと、あまり関係なさそうにも思います。

現状のカトリックの司祭は、その理由だけで犯罪者だと言っても言い過ぎではないでしょう。だって実際このような報道があるではないですか。違うでしょうか。

結婚できないからとか、そういったようなことではなくて、不自然な教義を、教理教育という洗脳によって無理やり叩き込むような、キリスト教という宗教の性質そのものが、性的虐待という犯罪に直結しているのだと思います。

偽善者の「絆」

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www.nhk.or.jp

 

今回はキリスト教には関係ありませんが、お許し下さい。

 

僕は京都市民なのですが、2011年の五山送り火(いわゆる大文字)で、東日本大地震津波で倒れてしまった陸前高田の松を薪にして燃やそう、という話が持ち上がった際、京都市民の苦情により使用を断念した、というニュースを聞いて、恥ずかしく思ったことを思い出します。「絆」だの「がんばれ」だのと、掛け声だけは調子よく掛けるくせに、具体的な計画に参加するとなると、尻込みしてまるで被害者になったかのように非難しだしてしまう、それが地元の話なのですから、外からみれば僕もその中に含まれてしまっているわけです。

実際には如意ヶ岳の大文字を除く四山では被災松が使用されたということですが、京都は風評被害を拡大した、という事実は残ることになりました。

検索してみますと、原発事故の影響に関しては、未だに偏見に満ちたサイトがありますね。悪意というべきようなものまであります。心苦しいですね。

「支援」というにはあまりにもわずかだという自覚はあるのですが、去年から、米は福島産のものを食べています。そんなことを発表して、お前こそ偽善者じゃないか、と言われるかもしれませんが(笑)。

エルサレム首都認定

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jp.wsj.com

 

アメリカの大統領がエルサレムイスラエルの首都として認定したのだとか。何らかの利権が絡んでいるのだろうとは想像できるのですが、上記Wall Street Journalの記事には、つぎのような記述もあります。

トランプ氏の福音派助言団体のメンバー、ジョニー・ムーア氏は「これは福音派への対応だけで決定されたわけではないが、福音派の影響なしでは決まらなかっただろう」と語った。ムーア氏は多くの福音派ユダヤ系指導者の広報を手掛けるカイロス社の創業者でもある。

キリスト教の一派がまとまってエルサレムの首都認定に一役買ったのだという説明ですね。

次の発言も摩訶不思議です。

エルサレムを巡る福音派の動きを非難する向きは、福音派ユダヤ人のためではなく、イエスの復活にはユダヤ人がエルサレムを支配しなければならないと黙示録が説いていると信じているからだと指摘する。

「 イエスの復活」は「キリストの再臨」の間違いだとしても、黙示録に「ユダヤ人がエルサレムを支配しなければならない」と説いている箇所があるとは思えません。もしそうなら、キリスト教の構造は根底から間違っていることになってしまいます。

そして

ファースト・バプテスト・ダラス教会の牧師でトランプ氏の福音派助言団体のメンバーを務めるロバート・ジェフレス氏は創世記を引用し「神はユダヤ人にイスラエルを与え、3000年前にエルサレムイスラエルの首都に決めた」と語った。「神がイスラエルを愛するから、われわれもイスラエルを愛する」と話した。

キリスト教の理解では、選ばれた民族であるイスラエル国民は地上の教会員に、エルサレムは天上の教会に帰結した、ということになります。消滅したのではなくて昇華したわけです。「神がイスラエルを愛するから、われわれもイスラエルを愛する」という考えは、神の受肉と受難、復活に関する福音書の教えを何一つ理解出来ていないことになってしまいますが、福音書を理解できないのに「福音派」となのるとは陳腐な現実です。

彼らにとって旧約は未だに有効であって、新約と同時進行している、ということなのでしょうか。あるいは、新約は実際には幻であって、旧約こそが唯一の希望だと思っているのでしょうか。もしそうならば、首都云々よりもまえに割礼を受けなければならないでしょう。

いずれにせよ、どっち付かずで中途半端。馬鹿げた話だと思います。