キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

罪の基準

f:id:christian-unabridged-dict:20170924082617j:plain

www.catholicnewsagency.com

 

デュポン神父の説教部屋第4回「私の罪は赦されますか?」

というサイトに、次のような記述があります。

キリスト教でいう「罪人」というのは、法律でいう「犯罪人」とは全く別の意味合いを含んでいます。犯罪というのが法律違反の行為で、社会に対して責任を問われるのに対して、キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。もちろん、場合によっては社会に対しても責任を問われることでしょう。

言葉尻を捕まえるようですが、この書き方だと、法律では裁かれる犯罪であっても、キリスト教としては罪では無い場合もある、と読めてしまいますね。

キリスト教と実社会に関連性は無く、それぞれ全く別のものだ、と言いたいのでしょう。それならキリスト教なんて社会では何の役にも立たないどころか、公序良俗に反する不清潔な思想だ、ということになってしまいますが、実際その通りだと思います。

 

また、次の記述、

たとえを持って考えてみましょう。泥棒はいつから泥棒でしょうか。他人の物を盗ったときからですか。あるいは盗ろうと決心したときからですか。明らかに盗ろうと決めたときからです。実行する前の計画や場所の下見などの段階では法律上では泥棒ではありませんが、しかし、良心の前ではあるいは神の御前では泥棒です。人の物を盗る行為をしていないので、法律上は「犯罪人」ではありませんが、心の内ではもう罪を犯した「罪人」なのです。

実行を決心した時点から犯罪である、ということは、キリスト教であろうがなかろうが変わりません。それが裁かれるかどうかの基準が法律と宗教の間で差がある、ということであって、盗みたい、というような考えが「悪いこと」であることに違いは無いはずです。悪いことをしたい、と望むことは「罪」である。これが常識というものです。実際、計画しただけで裁かれる、というように法律が変更されるかもしれない(2017年9月24日現在)、ということは周知の通りです。裁かれる行為の基準は常に変更される可能性があるわけです。

 

私が教会で習った「宗教的な罪」とは、まずもって一般社会の罪、つまり日本の法を侵すこと、次に、イエス様の教えに背くこと、でした。

福音書にあるイエス様の教えより日本の法を優先させる、という意味ではありません。現実世界には、すでに神の恵みが展開されているはずだ、と考えているわけです。まだしも少しマシな考え方だったと思いますが、じゃあ北朝鮮もか、ということになりますよね。この考え一つですべて丸く説明しきれるかというと、そうでは無いわけです。

まあ、少なくとも「今の世界は悪魔が支配している」というようなことを真剣に主張する教会よりはマシでしょう。

 

モーセの律法とは、イスラエルという国家の法律だったわけです。イスラエルには、モーセの律法以外の通常法があって、解釈の基準が異なっていた、ということではありません。モーセの律法によってのみ裁判が行われていたのです。イスラエルの国民にとって、モーセから伝わったものは、宗教ではなくて、法律であり行政であった、神すなわち法律そのものなのであって、法律上の罪と宗教上の罪に差はなかったのだということです。現在の日本には、しっかりとした法律が整備されているのですから、さらに法律の象徴である宗教は不必要だということになります。

 

福音書でイエスは次のように言っています。

マタイ福音書 5:17-20

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

この発言は、新約になったからと言って、律法が無効になったわけではない、かえって効力が強まった、と言っているのだとしか思えないですよね。

つまり、律法に「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」とあるのですから、同性愛者を見つけたら、キリスト教徒の努めとしては、その場で同性愛者を殺してしまわなければならない、ということになります。「その血は彼らに帰するであろう」の意味は、「殺しても律法の「殺すな」には該当しないよ。悪いのは同性愛者だから。」ということです。日本の法律では裁かれるかもしれませんが、それはまあ仕方のないことですね。

エスは、イスラエル国民はイスラエルの法律をきちんと守りなさい、と、言っているだけなのです。そこへ、むりやり宗教を被せようとするから矛盾が生じるわけです。

いかがでしょうか。日本には日本の法がある。そこへ異国の古ボケた法体系を当てはめようとするには無理がある。だから「キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。」というようなトンチカンなことを言わざるを得なくなってしまうのです。

キリスト教というのは、非プラクティカルなママゴト思想でしかない、ということです。

 

ロヒンギャ

f:id:christian-unabridged-dict:20170921165243j:plain

www.mediaislam.org

 

「まるで野菜を切り刻むかのように、仏教徒は我々を殺しに来た」

報道番組で、難を逃れたロヒンギャがこのように言っていました。

 

私は、宗教の中では、仏教が一番マシだと思っていました。このような事案があったとしても、思想そのものについては少なくともキリスト教よりは優れているという見方に変わりはありません。

しかし、美味なる果実であっても、汚染された器で供されたものは、結局は毒です。宗教は毒になりやすい。

宗教なんぞには滅多矢鱈と手をだすべきではありません。不必要だからです。止むにやまれずイスラームであるもの、仏教徒であるもの、そしてその故に迫害されるもの、迫害しなければならない、と思い込むものの悲哀に思いを致すことができるのですか?

約束の地

f:id:christian-unabridged-dict:20170918084358g:plain

www.flickeringmyth.com

 

旧約聖書の預言が、最終的に実現された結果である、と、キリスト教は自分たちをそのように考えているようです。

しかし、本当にそうなのであれば、何よりもまず、ユダヤ教の主流がそれを認めなくては意味がありません。ユダヤ教は、神とは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、イスラエルの民をエジプトから乳と蜜の流れる約束の国へ導き上らせる、という約束があり、そのために「十戒」を示された方なのだと理解していて、その理解の根拠は聖書に記されている、というわけです、キリスト教はそれをユダヤ教から借用しているのですから、ユダヤ教が納得できる説明をして、初めて意味を成すわけです。それができないなら借用ではなく無断盗用と言わねばなりません。

ユダヤ人の聖書である旧約聖書には、ペリシテ(パレスチナ)やモアブ人のように死後を重要視する偶像崇拝に陥ってはならない、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は生きているものの神だと記されています。

ああ、あの契約ね、あれ、古くて時代遅れになったからさ、別の契約に書き換えようよ。と、神自身がそう言ったと、これがキリスト教の言い分です。

神は完全なるものなのですから、一度交わした約束は絶対のはずです。仮に、神が二段階に分割して契約を小出しにしたというのであれば、それは、「ユダヤ教徒に納得のいく形で」預言者を通してその理由が述べられなければならない、ということです。

「お前らが納得しないなら、見てろ、イエスはただの預言者じゃないんだぞ、いいか「神」だぞ「神」。まいったか、おどろいたか、認めろよ、バカ。この糞ユダヤ人が」

そんなこと言われてもユダヤ側としては苦笑するほか無いわけですが、実際には、このようにしてユダヤ人差別が始まったわけです。キリスト教のみせかけの価値を高めるため、アレクサンドリア図書館を破壊し、科学者を惨殺し、ユダヤ人を抹殺しようとする、キリスト教とはそのような卑怯で狡猾な人物の駄集合なのです。

旧約聖書は認めるが、書き手がアホだったから、ちゃんと書けてないわけ。だから書き直したよ。それがコーランだよ。というイスラームの主張のほうがずっとまともだと思います。

キリスト教の主張が正しいなら、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエスキリストの神」、と神の修飾が修正され、ユダヤ教の聖書自体にそのことが加筆され、「キリスト教」のような陳腐な新興宗教は発生しなかったはずだと思います。

約束の地であるイスラエル国家は地上の教会に、乳と蜜の流れる楽園は、天上の教会、すなわち天国にすり替えられましたが、よく考えてみてください。これは旧約聖書で神が強く非難した、モアブやペリシテ人が行っている偶像崇拝、死後に望みを置く消極的な生き方、そのものではないでしょうか。

ユダヤ人は認めないが、実際はユダヤ教の展開後の宗教だ、なんてことはあり得ません。キリスト教とは、ローマの支配下にあった、イスラエルに渦巻いていた新メシア(強い政治力をもった指導者のこと)待望の機運を利用して勃興した、行き当たりばったりのテロ宗教に過ぎなかったのです。今でいうISですね。2000年前には、キリスト教が「愛」などと言ったら、バカなことを言うな、と叱られたでしょうが、2000年後にISが国際宗教に成長したときには、暴力性が排除されて「神は愛」なんて言ってるかもしれません。

 

預言の成就とは

f:id:christian-unabridged-dict:20170917140348j:plain

taylormarshall.com

 

私は、両親も、父母の両親も、親戚もほとんどがキリスト教徒、生まれてすぐに幼児洗礼を受洗、という環境で育ったのですが、同様の方であればお分かりの通り、所属する教派とバッチリ同じ教派でなくても、幼稚園はなんらかのキリスト教会が経営するところに行かせます。私は台湾で生まれましたので、台北にある長老教会が経営する幼稚園に通いました。日曜学校は、所属の教会ではなくて、幼稚園側の教会へ行き、日曜礼拝も幼稚園の教会へ出席しました。日曜から土曜まで、毎日幼稚園へ通っていたというわけです。

プロテスタントの方はご存知でしょうが、プロテスタント教会には、「子供用の聖書」なるものは存在しません。たとえ幼稚園児といえども、黒表紙の大人と同じ聖書で聖書の勉強をさせます。大抵の場合、教師が子供にもわかるようにかみ砕いて説明をするのですが、挿絵も何もない小さな字ばかりの重たい本に、全く興味を持てなかったことは言うまでもありません。

そんな日曜学校の記憶なんて、もう何十年も前の話なのですが、はっきりと覚えていることがあります。そんなことはおかしい、と感じた、マタイ福音書の次の箇所です。

マタイ福音書  21:1-7

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 

この記述です。「預言者によって言われたことが、成就するためである。」と記述されていますので、その個所も引用しておきましょう。

ゼカリヤ書 9:4

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

 

福音書のこの箇所の説明を聞いて、何がおかしいと感じたのか、それは、イエス様が、ゼカリヤ書の記述に合わせるための行動を、恣意的に行ったと記述されている、と感じたからです。もちろん、幼稚園児が「恣意的」だの「ゼカリヤ書の記述」だのとは思わなかったでしょうが、今説明すれば、ということです。

南極あたりで記録された預言書の予言内容がイスラエルで実現されたというのならともかく、実在したと仮定しても、イエス様は文盲で、かろうじて詩編を暗唱できる程度だったのでしょうが、預言書にロバの一件が記されていることを知らなかった、というには無理があります。「向こうにいけばロバがいるだろうからもらってこい」と言って「預言の成就」だというのは簡単なことだ、と子供が思っても仕方のないことです。違うでしょうか。

なんだかんだと理由を後付けして必死に説明しているようですが、「プロテスタントは聖書のみ(Sola scriptura)」のはずですよね。

皆さん、先入観や、偏見の激しい牧師や神父から植え付けられた思い込み抜きでよく読んでごらんなさい。聖書には「これは本当はウソですよ」と書いてありますよ。

「証し」とは

f:id:christian-unabridged-dict:20170911081602j:plain

www.salvationarmy.or.jp

 

「証し」という宗教行事をご存じでしょうか、カトリック正教会聖公会や伝統的プロテスタント教会には見受けられませんが、聞いたことぐらいならある、という方もおられるでしょう。新興教会で行われている習慣のようです。

私は、以前救世軍の礼拝を見学したときに始めて見ました。救世軍福音派に属するキリスト教プロテスタントの一派で、上の写真を見ると軍事フェチ同好会がコスプレして記念写真撮っているのかと思ってしまいますが、残念ながらそうではありません。真面目にやってるのです。この教会は洗礼を行いませんが、元々はメソジスト教会の付属団体でしたので、この団体としては洗礼を行う必要がなかったから、ということらしいです。救世軍の構成員イコールメソジスト教会の会員だった、というわけです。その後、メソジスト傘下から独立したのですが、洗礼を行わない習慣はそのまま残ったということなのでしょう。救世軍キリスト教の教会で、異端に分類されているわけでもありませんが、洗礼は行いません。

救世軍と言えば社会鍋やラッパが有名で、やはり礼拝中にもバンド演奏がありましたが、とてつもなく下手くそでした。

それで、その「証し」ですが、要するに、各個人別に感じている「神の実在」の証明を行うための発表会です。

その日の当番発表者らしい5、6人の人が、一人づつ講壇に立って、どもったり詰まったりしながら同じようなことを何度も繰り返し、つまらない冗談を交えて、あるいは感情的になって怒鳴りながら意味のないことを長々と話続けていました。

そして、いずれの人も、救世軍に入信する前は、とても悪い人間だった、と主張するのです。自分はかつてこんなに凶悪な人間だった、ということを自慢しているとしか思えない口調で言い募っていました。違法行為をしていた、という人もいました。

で、そんなに悪い人間だったが、救世軍に入信して良い人間になった、というわけです。

まあ、自分たちの団体の中でやってることですから、外から文句を言う筋合いでないことはよくわかっているのですが、見苦しい自慰行為を見せられているようで、聞いていてとても気持ち悪くなりました。

要するに、キリスト教の教義は奇妙奇天烈なこじつけで、賢明な人であればとても納得できるようなものではないのだけれど、無理にでも信じれば、自分のようになんとなく幸せな感じになることができるよ、と言っているわけで、聞いてる人たちには、あの喋ってる人のような考え方をすれば、この団体でうまくやっていくことができるんだな、頑張って同化するように努力しよう、と考えさせているわけです。

世の中、奇妙奇天烈なこじつけにしか思えないが、実は正しい、なんてことは無いと思いますよ。無理して信念曲げてまで安物の団体に同化する必要は無いと思います。止めたほうが早いです。

 

本当に実在するものであれば、別に「証し」する必要なんて無いはずです。本当は存在しないのだということを承知しているからこそ、定期的に「証し」をして思い込みの固定がはずれてしまわないようにする必要があるのでしょう。じつに滑稽です。

 伝統教会には、伝統に色付けされた様々なインパクトがあります。例えば華麗な建築や彫刻、絵画、荘厳な礼拝様式、祭服、様々な儀式や、聖人の記録、武装十分な教理や教理問答などです。

そういうものが無い新興教会は、直接的な力技でインパクトを生み出す必要がある、それが「証し」だというわけです。

どちらも同じ「詐欺」。

キリスト教会危険度ランク付け

f:id:christian-unabridged-dict:20170909160322j:plain

urbanwildlife2011.org

 

キリスト教会にはたくさんの教派が存在します。今回は、その教派ごとの危険度のランク付けを行って見ようと思います。

 LP(リトル・ペブル)、ものみの塔などは異端だからキリスト教ではない、という人がいますが、新、旧約聖書を拠り所としている宗教はすべてキリスト教です。異端というのは、ある一方からみた主観的な評価であって、それによってキリスト教がそうで無くなる、というわけではありません。異端というのであれば、キリスト教は全て人類の異端だというべきだと思います。

 

では危険度の高いものから順にご紹介しましょう。

 

危険度A:摂理KGKヨハン早稲田キリスト教会など学校に入り込む系統

東大、京大など、高偏差値の大学に入り込んで学生を囲い込むカルト団体。彼らが偏差値の高い学校に入り込む理由は、学生が将来高収入を得る社会人になる蓋然性が高いからです。決して彼らの頭脳に惹かれてではありません。宗教的な意味合いも全くありません。金が欲しいだけです。いわば、什一献金の青田買いをしようとしているわけです。

しかし、こんなあからさまな詐欺に引っかかるバカがいるということは、偏差値と言うものは、大して参考にならないようですね。

参考

 

 

危険度B:バプテスト聖霊派メガチャーチ、カリスマ牧師)

どちらも死後硬直レベルの頭の悪さです。考えるまでもなくわかると思うのですが、洗礼が人間に必要なものだというのなら、生まれたての赤ん坊にも必要なはずです。なんだかんだ理屈をつけて幼児洗礼を否定したりするのは、もっぱら他教派を批判するためだけの理由のように思います。アワ踊りを踊りながらアワを吹いてアワアワ言えてナンボの狂人だらけの教会も大問題です。屁理屈屋(バプテスト)と迷信家(聖霊派)。どちらも明晰な人間のすることとは思えません。

参考

  

危険度C:福音派の教会

大きく括れば、危険度AとBは危険度Cに含まれるでしょう。これら、什一献金を行う教会は、宗教団体というよりも集金機関です。死後の恐怖をネタに金を強請りとっているに過ぎないのです。どちらかと言うと、言われるままに払うほうがバカなんじゃないかと思います。

 

福音派 - Wikipedia によれば、

のいずれかに所属していれば福音派、と見分けられるとのこと。

参考

 

危険度D:単立の教会

系列が全く無い単立の教会、あっても国内にしかない教会、海外にあっても全部で10程度の教会はダメです。牧師がどんなバカなことを言おうが、全員言われるがままです。そもそも、牧師なんて神学校を出ててもいい加減なものです。それを、なんの勉強もしてない詐欺師が、今日から牧師ですよ、といえば牧師で、言うこと聞かなきゃ地獄行きですよ、と脅されて性的陵辱されるわけでしょ。

「超教派」と謳っている教会も同じ。

 


<2021/4/27 追記> ここから-->

「~連合」とか「~連盟」に加入している教会であったとしても、その教会が単立の教会でないとは言い切れません。少なくとも、宗教法人格を有していることを確認しましょう。何の法人格もない個人事業であるとか、あっても財団法人、株式会社や有限会社であるなら、献金はすべて「売上」として会計処理されていることになります。もう、その理由だけでダメだと判断できると思います。

法人格は、その地方の法務局で確認することができます。

<2021/4/27 追記> ここまで

参考

 

危険度E:全能神教会エホバの証人モルモン教統一教会

これらの教会は、教義が正統派の教義から離れているからというだけの理由で異端に分類されているのでは無いようです。エチオピア教会やコプト教会は単性論で教義的には非正統ですが、軽蔑されるほどでは無いように思います。

これらの教会が軽蔑されているのは、社会性が欠如しているからでしょう。違法行為、裁判沙汰、情報操作など、碌でもないことばかりを連想します。

中国で発生した「全能神教会」は、宣教活動において、殺人を行ったのだそうです。

全能神 - Wikipedia より

2014年5月28日、山東省招遠市のマクドナルドの店内で、全能神のメンバー、張立冬ら6人による女性撲殺事件が起こった(2014年山東招遠カルト殺人事件)。張は勧誘のために店内で電話番号を聞いて回っていたが、女性が断ったためとCCTVのインタビューに答えている。 

参考

 

危険度F:カトリック教会

歴史の長い伝統教会の中では最も危険です。

これらはおそらく氷山の一角でしかないでしょう。また。リトル・ペブル、ピオ10世会、オプス・デイなどといったカルトを排出する土壌である、という問題などがあります。

参考

 

危険度G:伝統的なプロテスタント教会長老派改革派組合教会メソジスト救世軍ルーテルなど)

「メインライン」と呼ばれる伝統的プロテスタントの主流派。日本基督教団に所属する教会もありますが、独立した教団も存在します。

もはや存在意義を失いつつあり、説教は他教派の悪口ばかり。正直なところ、教育という観点からは害毒でしかなくなってしまっているように感じます。また、エホバの証人などは長老派出身者が新興している場合が多いようです。

 

参考

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

危険度H:無教派(日本基督教団

カトリックでもプロテスタントでもない、という意味ではなくて、日本基督教団に所属する教会で、旧教派を持たない教会という意味です。まるで政治団体のようなものである場合が多いです。ある教会の説教では、大阪釜ヶ崎のあいりん地区の状況の報告を事務報告のようにだらだら喋り続けていました。浮浪者の援助をしたいなら地方公務員試験の勉強をするべきでしょう。

日本基督教団を分類すると「社会派」と「教会派」に二分することができるのだそうですが、どちらも確固たるポリシーに基づいている印象はありません。一応そういうことにしておくか、程度の、自分用のレッテルというところでしょう。

異なるカラーのレッテルを誇示しているものは敵だ、というわけでしょう。敵と罵り合いをして勝利することほど好戦家を満足させるものは他にありません。キリスト教に入信するということは、人にダメージを与えて溜飲を下げることだけが目的のようです。純粋な意味での「平和」を好む人は、キリスト教とは関係を築かないことをお勧めします。

 日本基督教団に所属する教会には、旧教派がはっきりしている教会もあります。

参考

 

危険度I:正教会

これも決して足を踏み入れるべきではありません。世界的とはいえ、日本では少数派であって、しかも建物が古い場合が多い。つまり、信徒一人あたりの、補修などの負担額がとても多くなるわけです。什一どころではないといいます。席上献金は前に置かれた覆いの無い盆に、一人ひとり現金を生のまま置く、という方式で、一万円置く信徒も珍しくないとか。また、特筆すべきこととして、前府主教(日本の代表者)が、晩年癌を患ったが、頑なに治療を拒んで自室に施錠して引きこもり、最後まで出ずに死を迎えた、ということです。これはある意味自死であり、キリスト教団体の長の行動としてはどうなのでしょうか、善き手本といえるでしょうか。団体全体の倫理観が透けて見えます。

 参考

 

危険度J:聖公会

比較的穏健と言えそうですが、残念ながら、司祭による性犯罪事件がありました。担当主教の対応にも問題があったようです。

 

参考 

 

危険度K:ユニテリアン

まだしもマトモだと言えるでしょうが、残念ながら日本にはありません。わかりやすく例えれば、緩やかな孔子尊崇のような感じです。慶應義塾は、当初この宗教団体のミッションスクールになる予定でしたが、頓挫した、という経緯があったようです。

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 


日本にはキリスト教は無い方が良いから、結局根付かなかったのだということなのでしょうね。神道だって穏健に見えますが、むりやり外国に根付かせようとして頑張ったらカルトになるかもしれません。うまく行かなければどうにかして金を引っ張らないと生きていけないでしょう。利用しようとして妙な教義を捏造して数少ない信者を脅迫するネタにするかもわかりません。つまりそういうことなんですよ。

外れている黙示録の予言

f:id:christian-unabridged-dict:20170903110825j:plain

ネロ - Wikipedia

 

黙示録には「大淫婦バビロン」という表現が何回か出てきます。見てみましょう

 

黙示録 14:8

また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。

 黙示録 16:19

大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。

黙示録 17:5

その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 

黙示録 18:2

彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。

黙示録 18:10 

彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。

黙示録 18:21

すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。

 

上記のように「バビロン」という表現が6回出てきます。 

大淫婦バビロン - Wikipedia

によれば、

堕落しきった女として暗喩されているものの正体はローマ帝国であり、彼女が乗る7つの首の獣はローマ帝国の7つの丘(もしくは7人の皇帝)を示しているとされる。ここで言うローマ帝国古代ローマであり、キリスト教への迫害が強かったとされる時期のローマを指している。

 とあり、「バビロン」はローマ帝国を示す暗喩だと説明されています。ローマ帝国キリスト教徒を虐めるので嫌いだった、というわけですが、

 

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

でご紹介したように、キリスト国教化前でもキリスト教徒は過激で野蛮なテロ行為を繰り返していたので、ローマ帝国から正当な制裁を受けていただけのことです。宗教主流派になったのをいいことに、「迫害を受けた」と正当化しているだけのことなのです。

 

黙示録には何と書いてあるでしょうか。『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。と悪態の限りを尽くして扱き下ろしていますよね。「あなたの敵を愛しなさい」という指導に反していることが「聖書」に記されている。これは事実だと認識しなければなりません。

 

それよりも重要なことは、悪態の限りを尽くして貶し尽くしたローマ帝国の、もしその国教にならなければキリスト教なんて今頃影も形も存在しないだろうということです。

 

「預言」なんて、一時的な感情による書きなぐりの駄文に過ぎない。これが正直なところでしょう。

 

「大淫婦」と言って軽蔑した相手に救ってもらって、キリスト教は生きているのです。恥ずかしいとは思わないのでしょうか。しかも凶悪なテロ行為に対する正当な制裁に反発しているだけなのです。

 

キリスト教が常に孕んでいる凶悪な要素について、例えば次のサイトで説明されています。

www.huffingtonpost.jp

 

第1回十字軍のとき、1098年の厳しい冬の時期にシリア北西部の都市マアッラで行われた攻防戦で飢えた兵士が人肉食を行った。1099年の夏には、エルサレム奪還のためにユダヤ人やイスラム教信者を虐殺した。また、キリスト教カタリ派ローマ・カトリック教会から異端のらく印を押され大量虐殺された例など枚挙にいとまがない。また、古代ユダヤ人が、神であるヤハウェの指示のもと、エリコの街中のすべての老若男女(と獣)を殺した行為も、彼らが選ばれた民であることを確信させるために行われた(旧約聖書申命記6:21)。