キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

預言の成就とは

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taylormarshall.com

 

私は、両親も、父母の両親も、親戚もほとんどがキリスト教徒、生まれてすぐに幼児洗礼を受洗、という環境で育ったのですが、同様の方であればお分かりの通り、所属する教派とバッチリ同じ教派でなくても、幼稚園はなんらかのキリスト教会が経営するところに行かせます。私は台湾で生まれましたので、台北にある長老教会が経営する幼稚園に通いました。日曜学校は、所属の教会ではなくて、幼稚園側の教会へ行き、日曜礼拝も幼稚園の教会へ出席しました。日曜から土曜まで、毎日幼稚園へ通っていたというわけです。

プロテスタントの方はご存知でしょうが、プロテスタント教会には、「子供用の聖書」なるものは存在しません。たとえ幼稚園児といえども、黒表紙の大人と同じ聖書で聖書の勉強をさせます。大抵の場合、教師が子供にもわかるようにかみ砕いて説明をするのですが、挿絵も何もない小さな字ばかりの重たい本に、全く興味を持てなかったことは言うまでもありません。

そんな日曜学校の記憶なんて、もう何十年も前の話なのですが、はっきりと覚えていることがあります。そんなことはおかしい、と感じた、マタイ福音書の次の箇所です。

マタイ福音書  21:1-7

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 

この記述です。「預言者によって言われたことが、成就するためである。」と記述されていますので、その個所も引用しておきましょう。

ゼカリヤ書 9:4

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

 

福音書のこの箇所の説明を聞いて、何がおかしいと感じたのか、それは、イエス様が、ゼカリヤ書の記述に合わせるための行動を、恣意的に行ったと記述されている、と感じたからです。もちろん、幼稚園児が「恣意的」だの「ゼカリヤ書の記述」だのとは思わなかったでしょうが、今説明すれば、ということです。

南極あたりで記録された預言書の予言内容がイスラエルで実現されたというのならともかく、実在したと仮定しても、イエス様は文盲で、かろうじて詩編を暗唱できる程度だったのでしょうが、預言書にロバの一件が記されていることを知らなかった、というには無理があります。「向こうにいけばロバがいるだろうからもらってこい」と言って「預言の成就」だというのは簡単なことだ、と子供が思っても仕方のないことです。違うでしょうか。

なんだかんだと理由を後付けして必死に説明しているようですが、「プロテスタントは聖書のみ(Sola scriptura)」のはずですよね。

皆さん、先入観や、偏見の激しい牧師や神父から植え付けられた思い込み抜きでよく読んでごらんなさい。聖書には「これは本当はウソですよ」と書いてありますよ。