キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

誤訳から生じた処女懐胎

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loohcs.jp

新約聖書とやらを読んでみようか、と聖書を開いてみますと、巻頭に「マタイの福音書」がありますが、読み始めようとすると、いきなり人名らしきものがずらずら並んでいてうんざりします。イエス様がダビデの子(子孫)であることを示すために、その系図が示されているわけです。

でも、イエス様は「神の子」なんだから、系図はどうでもいいんじゃないのだろうか、と思われたことはないでしょうか。実際、教会は、イエス様は聖霊によって処女である母マリアから生まれた、と教えているのですから、福音書にかかれている系図は、イエス様の系図ではなくて、養父ヨセフの系図でしかない、ということになりますよね。

エス様が処女から生まれた、という話は、イザヤ書の次の箇所を根拠としています。

イザヤ書 7:14

それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

中央大学の哲学の土橋茂樹先生が運営しておられるサイト

c-faculty.chuo-u.ac.jp

というページがありますので引用してみましょう。

 では、どうしてマタイは、そしてルカは、このように矛盾をきたしかねない二重の表現(つまり、<イエスダビデの子孫であるが故にキリストである>というダビデ-イエス系図という考えと、<イエスはその生まれからして「神の子」なのだ>という処女懐胎の考えの二重表現)を福音書に持ち込んだのでしょうか。その理由解明のためには、先にも見たマタイ1章23節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。」というイザヤ7章14節からの引用に遡らねばなりません。

 イザヤがその個所で用いたヘブライ語はalmah「娘」でした。しかし、その後、エジプトのプトレマイオス王の許にいた70人の長老たちによる旧約聖書ギリシア語訳(いわゆる70人訳聖書<セプトゥアギンタ>)が、この語をparthenos「処女」と訳したのです。それが故意の歪曲なのか、単なる誤訳なのかはわかりませんが、「村の娘が身ごもって男の子を産む」というごく普通の予言(預言)が「処女が身ごもって産む」という超自然的な預言へと変貌したのですから、この翻訳の影響は甚大です。マタイもまた、70人訳聖書のこの翻訳の影響を大きく被った一人なのだと思います。

いかがでしょうか。故意であれ、単純な誤訳であっても、間違いは間違いです。キリスト教の教義は、間違いに乗り上げて座礁したままの状態でずっと知らん顔をし続けているわけです。

国会議員がこんなことをすれば、議員辞職を余儀なくするに至るまで叩き続けられてしまいますが、宗教は便利なもので、「それもまた神の御旨の現れの一つ」などと言って上手にごまかすことができてしまいます。

「うちの教会はカトリックでも正教でもないからそんな間違いとは無関係」と思っているプロテスタントの人がいるかもしれませんが、そんなことはありませんよ。プロテスタントも同じことです。

日本キリスト教団の公式サイトから「信仰告白」を引用しておきましょう。

uccj.org

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。