三つの共観福音書には、犬と豚についての同じ話題が記されています。マタイ福音書から読んでみましょう。まずは豚の話題について。
マタイによる福音書 8:30-32
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
次に犬です。
マタイによる福音書 15:25-28
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
また、マタイによる福音書には次のような記述もあります。
マタイによる福音書 7:6
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
豚と犬、なぜイエス様の言葉として頻出するのでしょうか。イエス様の発言は例えで彩られているといいますが、これらもたとえなのでしょうか。
答えをいってしまいますと、たとえというよりも、当時のユダヤにおいては、直截な表現だったのではないかとおもうのですが、異教徒を示す言葉です。
どちらの動物も、神への捧げものとして用いることはできませんし、食用とすることも禁じられています。つまり、何の役にも立たない、無用無益なじゃまものでしかありません。そのような動物にたとえて、異教徒、外国人を蔑んでいるわけです。
christian-unabridged-dict.hatenablog.com
という記事では次のように説明しています。
異教徒を「犬」と呼ぶ理由は、申命記にその説明があります。みてみましょう。
申命記23:18
娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。
意訳されていてわかりにくいので。欽定訳を見てみましょう。
Thou shalt not bring the hire of a whore, or the price of a dog, into the house of the Lord thy God for any vow: for even both these are abomination unto the Lord thy God.
口語訳における「男娼の価」は「price of a dog(犬の稼ぎ)」を意訳したものであることがわかります。男娼は犬の性交時のような姿勢で客と性交渉を行うので、そのような宗教的習慣のある異教徒を蔑んで「犬」と呼ぶわけです。
イエス様の教えに、ユダヤ教の知識はエッセンシャルなものであったわけですから、そのような素地を持たない異教徒はゴミ屑同然だと貶しているのです。しかし、持とうとすることは素晴らしいことなのだと、犬の件では女を高く評価しています。
テーブルの上の料理は、ユダヤ人(キリスト教徒)が神から直接受ける恵みを、こぼれ落ちるパン屑は、神の恵みに満たされた人によって実現される平和が示されているのです。
でも、教会ではそんなことならわなかったよね、とおもわれませんでしたか?
それは、福音書に、イエス様がたとえ異教徒であれ、人を犬や豚呼ばわりしているということが記されている、ということがバレてしまわないように忖度しているんですよ。