キリスト教の問題点について考える

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最後の審判はいつ行われるのか

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キリスト教の基本的な考え方の一つに「最後の審判」があります。Wikiには、

キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるという。 

という説明がありますが、それはだいたいいつ頃おこなわれるのでしょうか。気になるところです。

創世記を読んでみましょう。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。 

神は、あらゆる創造に先立って、まず「時間」を創造されたのだ、と説明されています。時間に制限されない生物は存在しませんが、神は時間を創造した本人ですから、当然ながら時間には制限されません。むしろ、時間を制御する側であるわけです。

おわかりでしょうか、時間に制限されながら生きている人間にとっては、最後の審判は「世の終わり」に実行されるだろう、と予想するしかありませんが、神の業の実際には「始まり」も「終わり」もありません。別の表現をするならば「始まり」であるとともに「終わり」でもある、ということになります。

ヨハネの黙示 21:6 に、

事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。

とあるのは、神のこの特性について言い表しているわけです。

つまり、神の創造のわざは、最後の審判を含めて、すでに全て完了している、ということなのです。

しかし、人間の能力は神よりはるかに劣るので、分かりやすいように「時間」という秩序を通して、その業を順序立てて理解しやすい状態で見せられている、というわけです。神はそのような必要がありませんので、創造の結果をあらゆる局面から自由に観察することができます。

予定説や二重予定説が正しいか間違いか、なんていう議論がいかに幼稚で価値の無いものかがご理解いただけるでしょう。

キリスト教の理屈をその通りに解釈するのであれば、神の創造と最後の審判や世の終わりについてはそういうことになるはずです。ですが、あれ、ちょっとちがうよね、と感じなかったでしょうか。

そう、教会が定義する神は「全知全能」といいながら、無知で愚かな存在です。その人が右へ行くのか左へ行くのか知らないし、自分で創造したはずの悪魔と戦ってなかなか勝利できないような存在でしかないのです。

それは、聖書には嘘がかいてあるからなのか、教会が聖書を斜め読みにしか読めないからなのか、どちらなのでしょうか(笑)。