マタイによる福音書 15:24
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」
と発言しておられます。しかし他の箇所では異邦人の女性の発言を褒めているし、百卒長の信仰を評価したり、ニネベを例にあげたりして、異邦人が救われることを説明しているのです。なぜでしょうか。
このことを理解するためには、まず、イエス様がイスラエルの神を「父」と呼ぶことの理由を正しく知る必要があります。イエス様が神様を「父」と呼ぶ理由は、「神と人の関係が親子関係のように親しくなったことを理解させるため」のように考える場合がほとんどではないかと思うのですが、違います。そうではなくて、今まで「神」と理解していたものに対して、これからはもうそのような拙い考え方を捨てて、イスラエルの精神性の源流をなす父性的象徴として「父」と理解するようにしよう、と提言されているわけです。「聖書の著者たち」と言ってもいいのかもしれませんが、唯一神教的な習慣に慣れ親しんだユダヤの国民に対する効果的なアプローチとしては「父」と表現するべきだったのでしょう。
思考能力に問題がある人がこれを考えると「三位一体」などという奇想天外な結論を導き出すわけです(笑)。
そしてこれからは、「神に選ばれた民」というようなこだわりを捨て、「自分自身に執着すること」が何よりも恐ろしい平和に対する敵であることを知り、ユダヤの国民がそのことをまず理解した上、全世界を牽引するところのリーダーとなりながら、真の平和を実現するために全世界へ向けて「離散(ディアスポラ)」するのだよ、と希望されたのです。
だから、異邦人に宣教する前に、まずユダヤ人にそのことを理解させなければいけないね、という意味だというわけです。ユダヤ人が理解すれば、ユダヤ人によって全世界に理解が及ぶ。「イスラエルの失われた羊以外のものには、つかわされていない」とはそういう意味だったのです。
少なくとも、ユダヤ教に対立するような新宗教がたちあがるようなことにだけはなってはならない。イエス様はそう考えられたはずです。
果たして、人類は賢明な選択を行うことのできない生き物でしかなかったのです。考え得るかぎり、最悪のシナリオを実践する道を選び、そして今日を迎えた。これが現実だというわけです。