キリスト教の問題点について考える

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犬とパンくず

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今回は、マタイの福音書に記されている、犬とパンくずに関するエピソードについて考えてみましょう。

マタイの福音書15:21-28

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

この箇所に出現する「犬」という表現は「異教徒」を示しています。この女はツロ・シドンというフェニキアの都市の出身であったと記されています。現在のレバノンで、イスラエルの北方、地中海沿岸に位置していて、おそらくこの女はギリシャ語を話す人であっただろうと思われます。

異教徒を「犬」と呼ぶ理由は、申命記にその説明があります。みてみましょう。

申命記23:18

娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。

 意訳されていてわかりにくいので。欽定訳を見てみましょう。

Thou shalt not bring the hire of a whore, or the price of a dog, into the house of the Lord thy God for any vow: for even both these are abomination unto the Lord thy God.

口語訳における「男娼の価」は「price of a dog(犬の稼ぎ)」を意訳したものであることがわかります。男娼は犬の性交時のような姿勢で客と性交渉を行うので、そのような宗教的習慣のある異教徒を蔑んで「犬」と呼ぶわけです。

さて、それでは、この、異教徒の女とイエス様の間にかわされたお話にはどのような意味があるのでしょうか。異教徒を異教徒だという理由だけで少なくとも一度は拒否されたイエス様の本意は何だったのか、また「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」という程度の答えで「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」とべた褒めする理由は何なのか、考えてみれば不思議なやり取りではあります。

次のように考えてみてはどうでしょうか。

まず、この女の「娘」を、この女自身の心理状態を象徴する表現と考えることにしましょう。それで、女がイエス様のそばに近づいて、どうか教えを授けてください、と哀願したときに、イスラエルの宗教に慣れ親しんだ人に解りやすいように、そのような前提でいろいろなことを説明しているのだから、異教徒であるあなたがそれを理解するのは容易なことではありませんよ、と、諭したのでしょう。そのときに女は、

困難であれ、僅かな端緒のみであっても、真理であるからには、私はそれを知るべきだと思っています、

と答えたのではないでしょうか。それを聞いたイエス様は、そのような理解こそが真理へ至る道であるのだ、と絶賛したのです。そのようにしてイエス様の教えを聞くと理解し、閉ざされた女の心が開いた(娘の病が癒えた)、と記されているわけです。

おそらく、実際にはこのような会話があったわけではなくて、イエス様の教えが、人種、宗教、国、性といったような人の垣根を超越した真理であることを、このエピソードを通して説明している、ということなのでしょう。

見逃せないことは、イエス様が女に、異教を捨てて自らの教団に改宗するようにとは言っていない、ということでしょう。異教徒は、異教徒であるそのままの状態で、イエス様の理想を実践することができる、福音書はそう教えているのです。

「なんども食い下がってお願いすれば、いつかイエス様も折れて、しぶしぶながらも聞き入れてくださるのだよ」、程度の理解で済ましてしまうのがキリスト教という宗教のようですが、イエス様から見ると「犬の理解」ということになるのではないでしょうか(笑)。