キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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イエス様自身が三位一体を否定している

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福音書で、イエス様ご自身が三位一体を否定する発言をしておられます。早速読んでみましょう

マタイによる福音書24:35-36

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

エス様は福音書で、ご自身のことを「人の子」と表現しておられます。これは、「人となった神の子」という意味ではないのか、と思われる場合がありますが、全く違います。あまりにも見当違いな妄想だと言えるでしょう。「人の子」が何を意味する言葉であるのかは、エゼキエル書から知ることができます。読んでみましょう。

エゼキエル書 1:28-2:1

そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。

「彼」とは「語る者の声」であり、「語る者」とは「主の栄光の形のさま」、つまり、神ご自身のこと、と理解することができます。

エゼキエルは神から「人の子」と呼ばれているのですが、エゼキエル自身が神であると考えられているわけではないですよね。「人の子」とは、神によって選別された指導者に与えられる特別なタイトルだと考えられているのです。

ですから、イエス様が「人の子」とか「子」と言うときは、「神である」という意味で言っているのでは無くて、真実を述べ伝える教師である、という意味でそう言っているのです。

そう考えて、上に引用した福音書の箇所を確認してみましょう。

「その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない」

とありますよね。知っているのは父だけであって、「子」である私も知らないのだ、としっかり発言しています。ただの親子関係であれば、実際のところ、父がどう考えているのか、私にはさっぱりわからないよ、などというのは普通のことなのかもしれないのですが、三位一体とは、「ニカイヤ信条」によれば、

主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、天地万物は総べて彼によりて創造されたり。

とあって、イエス様は「御父と本質を同一」にするものであって、「天地万物は総べて彼によりて創造された」のだと理解しようとしているのです。

おわかりでしょうか。父である神の計画を知らないものが、本質が同一であるとは言えませんし、知り尽くしていなければ、天地万物総てを創造することは不可能であるはずです。つまり、福音書のこの箇所でイエス様は、私は神ではない、と説明していることになるわけです。当然ながら、三位一体という考え方もまた成立しない、ということになります。

 

常識社会においては、三位一体をどのように理解しようとしているのでしょうか。

www.try-it.jp

から引用してみましょう。

三位一体説は 皇帝にとって都合のよい考え方でした。
神が人間の姿を借りるのなら、その人間は自分であると主張することができるのです。
皇帝を神とは認めなかったキリスト教徒も、神が皇帝の姿を借りているのなら話は別です。
皇帝は三位一体説を利用して、自らの発言は神の発言であると主張しました。

おわかりでしょうか。宗教なんて利権と利権の間にかろうじてうごめいている害虫のようなものです。人の利便に資さないのであれば何の用もない、邪魔な置物に過ぎないということです。民衆の間に流行していて、政治の道具として有利に働く可能性があるから、キリスト教ローマ帝国の国教となったわけです。より有利に利用するために、皇帝が介入して三位一体などの教理が作られていった、キリスト教とはそのようなものなのです。

本当に神がいるのであれば、少なくとも、人がそれを礼拝する必要は全く無い、ということを理解するべきだと思います。