キリスト教の問題点について考える

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神と仏

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阿弥陀如来 | 仏像ワールド

 

仏教で、特に浄土真宗などにおいては、あたかも如来が現実世界に実在し、特別な力で衆生を往生へと導く、就中、死後、極楽へ生まれ変わらせてくれるのだ、と教えているかのように感じる場合が多いのですが、実際には、如来というのは、人間として、最終的にあるべき、理想の姿を仮定したものであって、実在するものではありません。極楽や浄土などといったものも、実際には死後の世界ではなくて、人間が如来に成長した状態を想像して表現したものであるわけです。

実際、お釈迦様は、死後の世界については、いくら質問されても明確な回答をしませんでした。自分自身がわからないことを説明のしようがないだろう、ということです。これを「無記」といいます。

マタイ福音書 6:30-34

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

エス様とお釈迦様の考えは、ほとんど同じであることがよくわかります。この箇所は、情緒的な感傷でも、感情的な慰めでもありません。

「明日のこと」とはつまり、「死後のこと」です。死後、天国に行けるか、地獄に落とされるか、そんなバカバカしい空想はやめてしまいなさい。それよりも、生きること、生きている社会をどうするのかを考えることが大事なのだよ、と教えています。

そのためには、食事や服装の心配、つまり物欲を捨てなければならない、仏教の言う「煩悩」を捨てなければならないよ、ということを言っているわけです。持ち物を捨てなさいという勧めは、福音書を貫く主題だと言っても言い過ぎでは無いでしょう。

死後、極楽に生まれ変わることが仏教の目的に変わってしまったように、死後天国へ迎えてもらえることが、キリスト教徒の特権であるかのように誤解している人がほとんどではないでしょうか。