キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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アナニヤとサッピラ

 

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新約聖書には「使徒行伝」と呼ばれる一巻があります。「使徒の働き」などと訳されている場合もあるようですが、これはルカ福音書と同じ作者によって著された、同福音書の続編というべき書物です。福音書にはイエス様の誕生から死と復活までに行われた宣教活動が記されていて、使徒行伝にはイエス様の復活直後から昇天についてと、その後の弟子たちの活動、パウロによる宣教活動が始まったことが記されています。

しかし、使徒行伝を注意深く読み進めますと、イエス様がいなくなった後、残された弟子たちが、イエス様の思想を正しく理解できていなかったこと、意思に反した行いを行ったことを告発するところの文章なのでは無いかと思われるところがあります。少し見てみましょう。

使徒行伝 2:43

みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。

 使徒行伝 4:16

あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。

使徒行伝 4:30

そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい

 使徒行伝 5:12

そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。

エス様がいなくなってしまったあと、使徒たちによって「しるし」と「奇跡」が行われた、と記されています。しかし、イエス様は「しるし」について何と言っていたのでしょうか。同じ人によって著されたルカの福音書には、

ルカ福音書 11:29

この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

マタイ福音書にはもう少しわかりやすく、

マタイ福音書 12:38-39

そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

とあります。イエス様ご自身が「しるしは預言者ヨナのしるしただ一つだけ」すなわち、異教徒が異教徒のままで神の恵みを享受する有様をまざまざと目にすること、それだけだ、と明言されていることがわかります。奇跡やしるしといったような事柄は本質的なものではないのであって、むしろ一時的なごまかし、まやかしにすぎない。大切なことは本質を見抜く力とそれを伝える力だと説明されたわけです。しかし、それにも関わらず、使徒たちはマジックを披露して、喝采を浴びてはいい気になっていた、とあって、本質を追い求めることの大切さを忘れ大衆に迎合し初めた、という事実が暴露されているわけです。イエス様の直弟子だからといって、超能力で思い通りに奇跡が起こせるわけではありません。しるしや奇跡を起こして見せることが必要だとしか思えなくなった彼らは、一生懸命にマジックの腕を磨いたに過ぎなかったのです。

また、ここで説明することさえおぞましい、実に恐怖としか言いようのない出来事が記述されています。見てみましょう。

使徒行伝 4:36-5:11

クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。
ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。
三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

当時のキリスト教社会は共産制を敷いていて、財産を共有していたのだということでしょう。各々財産を持ち寄ってその所有権を放棄し、教団によって個人に必要なだけ分配されたものによって生活したものと思われます。

しかし、教団に身を寄せて共同生活を始めようと決心したからには「全財産」を投げ出さなければならなかった、ということです。この夫婦のように、少しだけ私有の財産を隠し持ちながら、共同生活の甘い部分だけ盗み取ろうとすることは「許されない」ことであり、その対価は「死」であったのだということです。

僕には、人間はチヤホヤされていい気になると、人を殺してなんとも思わなくなるほど道を踏み外すことができてしまうんだよ、という皮肉としか読み取ることができません。イエス様を失ったキリスト教は正に「カルト」そのもの、何が正義であるのかという極めて初歩的な事柄さえも見失っていたのだということがわかります。

あと一つ面白い、隠れた予表をご紹介しておきましょう。

使徒行伝 1:23-26

そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。

なぜこのようなどうでもいいようなことがわざわざ記されているのかといいますと、この後に使徒として加えられるサウロ(パウロ)の順位を「13」にするためだったのです。聖書には、過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも申し上げました通り、数字が示す意味が深長に盛り込まれています。ただの象徴としてではなく、話題の本筋として利用されているのです。

ja.wikipedia.org

から引用してみましょう。

「非調和な数」説
古代より暦の必要性から時間や方位などに六十進法が使われており、中でも60の約数の一つである12はそれらを構成する基準の数として、12か月や12時間、12方位などのようにしばしば用いられてきた。生活に広く根付いた基数の12に対し、12より一つ多く素数である13は、その調和を乱すものとして不吉な数と考えられた。 

いかがでしょうか、新約聖書においてパウロは「調和を乱すもの」の象徴であったのです。少なくとも、聖人伝のようなサブテキストではなく、キリスト教の根幹をなすメインテキストでこれらのような事柄が語られている、という事実を理解しなくてはなりません。

使徒行伝の著者は、キリスト教という宗教の立ち上がりは、すなわちキリスト教思想の終焉であることを予知し、そのことを述べていたのだということがわかります。