日曜日の礼拝の最後には「祝祷」というものがあります。プロテスタント教会では、牧師がひときわ改まって、いかにも「これは特別ですよ」という様子を強調しながら、
「願わくは、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方とともにありますように」
などといいます。
正教会では、上記写真のように手持ち十字架で、カトリックでは手で十字架を描きながら、同じ意味の言葉でもって会衆を祝福します。
しかし、正教会・カトリック教会の場合と、プロテスタント教会の場合では、その意味に違いがあります。正教会・カトリックの神父や司教、主教は聖職者ですが、プロテスタントの牧師、長老、主事、執事、監督、主教はいずれも聖職者ではありません。
正教会・カトリックの聖職者は神の願いによって聖職に召されて、神の権威を身に帯びて、神の代理として信徒の前に立っているわけですから、信徒を祝福するということは、神が祝福することと同じ意味であると言うことができますが、プロテスタントにおける司祭は「万人祭司」と言われる信徒各人であるわけです。プロテスタントの信徒は特別に司祭を立てなくても、直接神とコンタクトすることができるのだ、という意味です。そういう意味では、プロテスタントの信徒は、正教やカトリックの信徒よりも神に近い位置で生活をしている、ということになるのかもしれません。
正教とカトリックの信徒は、教会と聖職者無しには信仰生活を維持することができませんが、プロテスタントの信徒は、教会と牧師がなくても、正常に信仰生活を続けることができるのです。
では、プロテスタントの牧師はなにかといいますと、信徒の質問に答えられるように、専門の勉強を修めた技術者だ、といえばわかりやすいでしょうか。要するに、教会の雑用係ですね。礼拝、礼典や教会の戸締まりをする係の人です。
ですから、牧師が祝祷を行う意味は、
教会の使用人である私としては、信徒のみなさんが幸せであってくださればいいな、と願っていて、いまここでこのように、そのことを表明いたします。
ということでいいと思います。
しかも、信徒側としては、牧師がこの言葉を心から滞りなく、わだかまりもなく、素直に発しているかどうかを確認する意味もあります。牧師が信徒とうまくやれなくなっているのであれば、事故が発生する前に首をすげ替えなくてはならないからです。
説教もおなじことです。はっきり言って、何年も何十年も礼拝に出席していれば、聖書のどの箇所でどんな説教が行われるかはわかっているのであって、牧師が講壇の上から突拍子もないことを言い出さないかどうかに興味があるから、その確認のために行わせるのです。説教は、信徒が牧師の使用期限を検査するための試験だ、というところが実際の意味だということです。
プロテスタントの牧師が「聖職者」であると理解することは、プロテスタントの聖餐式のパンを「聖体」だと理解することと同じぐらい奇妙で的外れなことだと思います。
以上を踏まえた上、次のサイトの記事をお読みください。
(写真は見やすくなるように少し修正しています)
大阪のカトリック阿倍野教会の創立55年を記念するミサで、大阪の大司教が司式し、プロテスタント牧師が招かれて共同司式を行った、ということを伝える記事ですが、次の記述をお読みください。
ミサの最後に大司教が「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上に豊かにありますように」というときに、わざわざ聖公会の司教や2名の牧師に、司教様と先生方も一緒に手を出してカトリック信者を「祝福」してあげてください・・・・と出席者全員に聴こえる声で言った上で、この連中も一緒に手を差し出して私達を「祝福」した。ただしこのとき、日本キリスト教団の牧師先生は、他の聖公会司教やバプティスト派の牧師のように、カトリック司祭の真似をしてミサ中に祝福を与えることを、御自分から辞退なさった。牧師達の祝福をカトリック信徒はどう受け止めたのであろうか?
祝福が神から来るものであれば、それは当然神の権威を体現する人たちから来なければならない。それは司教であり、司祭であり、親である。牧師達にはそのような資格が皆無である。叙階も受けていないのだから、ただのおじさんでしかない。祭壇に上がることさえ遠慮すべきでした。これは噴飯物でしかない。御ミサをこのような茶番で汚してはいけません。
とあります。カトリックの人は(プロテスタントの人にもいますが)、プロテスタントの牧師が、聖職者ではなくて、神にお墨付きを得たわけでもなくて、権威を与えられたというわけでもない、もとよりタダのおじさん、おばさんに変わりないのだ、ということ、そしてプロテスタントの牧師の定義がそもそもそういうことだ、ということを知らないのでしょう。鉄ヲタがJRに就職するように、儀式フェチがキリスト教の教団に就職しただけの話です。だから、呼ばれれば断らないと思いますよ。金額次第でしょうけど。
ちなみに、同じミサの写真、祭壇の向かって左手前に見えるのは「靴」なのだそうです。祭壇とはプロテスタントでいえば聖餐卓のことです。いわば食卓です。誰か食卓でこれから食事をしようかと言うときに上に靴を置くでしょうか。カトリックは思いの外衛生意識が希薄のようです(笑)。