キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「神を試す」とは ー マラキ書を考える

f:id:christian-unabridged-dict:20200402194657j:plain

ja.wikipedia.org

EXILE」と聞くと、男性ダンス&ボーカルグループを思い起こしますが、Exile とは「流刑」や「亡命」などの他に「バビロン捕囚」を意味する言葉でもあります。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも引用しましたが、「マラキ書」は、バビロン捕囚が終わり、捕囚民が解放されてイスラエルに帰還した直後のイスラエル国民に対しての預言として著された文章です。

再度Wikiの「マラキ書」から引用してみましょう。

背景
当時、捕囚から帰還した頃は市民権の保証がなく、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。しかし、エルサレムはペルシアからも独立出来ず、ハガイ2:2で語られたような約束された栄光を見てはいなかった。

また民の中の資産家はそれを増やす手段を選ばず、軽率な離婚や異邦人との結婚などを行っていた。祭司はそれを止めようともせずにむしろ助長させていた。平気で皆が律法を破るようになっていたのである。

このように祭司の堕落[1]や、軽薄な雑婚・離婚[2]、捧げ物の不履行[3][4]などが蔓延していた。

上記のようにネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。しかし鈍感になっていた民は繰り返される預言に対して「どのように」と繰り返した。(マラ1:2他、多数)その民衆を呼び覚ますために預言者が遣わされたのである。 

捕囚はおよそ50年間に及びました。2から4ほどの世代を数えたことでしょう。生活の習慣なども現地のそれに馴染んだことだと思います。宗教も同様です。バビロン周辺には当時最新の魅力的な宗教が花を咲かせていたのです。バビロニアに限らず、宗教とは、現代の日本のような、お隣は仏教だけどうちはキリスト教、といったような趣味的なものではなく、政治であり科学でもあり、社会を組成する重要な要素の一つであったと言えるでしょう。捕囚民とはいえ、その国で生活をしようとするのであれば、その宗教に馴染むことは自然の必要であったと理解できます。

50年経ったころにはすっかりイスラエルの神は忘れられてしまったような状況だったのではないでしょうか。しかしペルシャの介入によって捕囚は解放され、祖国への帰還が許されたわけです。これが「ユダヤ」という国家の始まりであり、「ユダヤ教」という国家宗教の始まりでもありました。

ユダヤの政治家は国民にユダヤ教を中心とした神権政治を布いて国家を再建しようとした、ちょうどそのころ、マラキ書が著されたということです。

マラキ書を読んでみましょう。

マラキ書 1:13-14

あなたがたはまた『これはなんと煩わしい事か』と言って、わたしを鼻であしらうと、万軍の主は言われる。あなたがたはまた奪った物、足なえのもの、病めるものを、ささげ物として携えて来る。わたしはそれを、あなたがたの手から、受けるであろうかと主は言われる。

群れのうちに雄の獣があり、それをささげると誓いを立てているのに、傷のあるものを、主にささげる偽り者はのろわれる。わたしは大いなる王で、わが名は国々のうちに恐れられるべきであると、万軍の主は言われる。

バビロニアの神は、少々の賽銭で守ってくれる寛容な神だったかもしれないが、ユダヤはこれから国体を持ち直さなければならない。だからユダヤの神は国民に厳しい要求をせねばならない、と言っています。

マラキ書 3-10

わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

ユダヤの神が「わたしを試してみよ」と言うところの真意は、今までバビロニアの神に慣れ親しんだお前たち国民が、かの神々に対する貢物、供物を止めてしまうことで災禍を被るのではないかと恐れるのであれば、わたくし(ユダヤの神)がしっかりと保護してやるのだから信用しろ、信用できなければ思い切って、バビロニアの神に捧げる供物を、全てユダヤの神に捧げてみて、実際に災いが起こるか起こらないか試してみなさい、バビロニアの神は実在しない偶像なんだから、わたくしがあなた方に注ぐ恵みにはまさらないんだよ、ということです。
 
少し戻りますが、マラキ書 3:8-9

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。

あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。

ユダヤに還ってきて、ユダヤ国民として国のインフラやいろいろな政策の成果に依存して生活をしようとするなら、いつまでもバビロニアの神に供え物をして財を潰えてはなりません。今はユダヤの国民なのだから、ユダヤの国民としてユダヤに納税をしなさい、と言っているのだ、ということが理解できるはずです。

仮に、現代のキリスト教徒に対して応用するとしたところで、什一献金しないとのろわれるよ、と言っているわけではない、ということがおわかりいただけたでしょうか。

教会へ行って暇つぶしするのは構いませんが、財産潰してしまうのはどうかと思いますよ(笑)。