「律法」と聞くと、あの、禁止事項や命令がたくさん書かれている、いわゆる宗教規則のことだろう、と理解される場合がほとんどでしょう。日本の法律でも同じことです。してはいけないこと、何かを行いたいときに従うべき規則などが細かく定義されています。
法律って、結局のところ、何なの、どういうことなの? ってお考えになったことがあるでしょうか。法律を一言で言い表すとどうなるんでしょうか。法律とは、律法も同じですが、取りも直さず、
「良い世の中を実現しましょう」
ということを言っているのです。本当はそれだけで良くて、それ以外のことは何も言うべきではないのです。しかし、実際にはそれだけでは世の中は良くなりません。これが現実です。人間はそれほど頭が良くはないからです。良い世の中を実現するためには、これをしてはならない。その場合はこうしなければならない、と、細かな規定を文章化しておかなくてはなりません。すなわち、日本の法律であったり、聖書の律法であったりがこれですね。
福音書を読んでみましょう。マタイ伝 5:17-18
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
これを読んで、やはりエルサレムには唯一神殿が必要なのだ、と理解する人がいるようですが、よく読んでみると、イエス様は、律法や預言者を「成就するためにきたのである」と発言されていますよね。なぜならば、まだ成就していないからです。律法の文言を一つずつ、無機質に解釈し、そのとおりやればいいのだろう、と言ってそれを行ったとしても、それでは神の考えを実現したとは言えないよ、と言っているわけです。神は「良い世の中を実現しましょう」と言っているのです。禁忌事項を避ければそれでOK、ではないのだよ、ということです。
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
この箇所の礼拝説教では、罪人が罪人を裁くことの愚かさ、が指摘されているのだ、と説明されるのではないかと思いますが、「律法を一言で言うと何か」に照らし合わせて考えてみれば、ただそれだけでは無くて、もっと厳しい意味合いがふくまれている、と考えるべきでしょう。
すなわち、一人ひとりが律法の真髄を心から理解し、自分一人が無罪たらんと身を守ることでなく、世の中全体をみることこそがそのまこと、であることを知っているのであれば、そもそも、身を売ることによってしか生活することができない者が存在しないはずではないか、そのような貧窮者が存在する世の中をしか実現できていないことを、自らの恥とは思わないのか、
と言っているのです。
マタイ伝17:2-3に、
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
とありますが、これは、弟子たちがイエス様の説教を聞いて、それが、真実の律法であり、同時に真実の預言である、と感じた、と伝えているわけです。モーセは律法の、エリヤは預言の象徴として喩えられています。
いかがでしょうか。万人救済主義が間違いだとか嘆かわしいとかつぶやいている人がいますが、そんなどうでもいいようなことよりも、イエス様の発言の内容をきちんと理解しておいたほうがいいと思いますよ(笑)。