キリスト教の問題点について考える

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アブラハム、イサク、ヤコブの神

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聖書にはしばしば「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という表現が出てきます。見てみましょう。

マタイによる福音書 22:32
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

その引用元は

創世記 28:13
そして主は彼(註:ヤコブ)のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。

出エジプト記 3:6
また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。

などがあります。

しかし、父母の世代や祖父母の世代と同じ神を礼拝していれば、その神が「生きている者の神」であると断定される理由は何か、また「死んだ者の神」を否定する理由は何なのでしょうか。

日本には神道の神がありますが、三世代で神棚を祀り、奉幣を献じて礼拝を続けているからと言って、別にすごいことでも何でもありませんよね。普通の、当たり前のことです。また、死を穢れとして忌み嫌い「生きている者の神」であることを強調しています。こういうことを言うと「日ユ同祖論」かと言われてしまいそうなのですが、そうではなくて、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言ったぐらいのことでは、イスラエルの神の正当性や優位性を示すには弱いのではないだろうか、ということが言いたいのです。

これはおそらく、近隣外国の異教と比較しているのだろうと思います。例えばエジプト神話を考えてみましょう。

www.ai-l.jp

エジプト神話は多神教ですので様々な神がいて、ある王朝は「ラー」を、別の王朝は「ホルス」や「イシス」、また「アメン」などを、情勢に合わせて、王(ファラオ)の象徴である最高神として変更してきた歴史があります。しかし、イスラエルの神は違うよ、と言っているのです。世代や情勢が変わっても、同じ神を礼拝していて、神は唯一で絶対だ、ということを主張しようとしているわけです。これが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉が表している意味です。

次に、「死んだ者の神」が何を表現しているのかについてもエジプト神話を通して推察するのであれば、

ja.wikipedia.org

に、

死者の書(ししゃのしょ、TotenbuchBook of the Deadアラビア語كتاب الموتىアラビア語エジプト方言كتاب الاموات)は、古代エジプトにおいて新王国時代(前16世紀)以降に作られた葬礼文書のこと。同時期の墳墓における副葬品の1つで、一般にパピルスに書かれたものを指す。その内容は、エジプト神話死生観に基づき、死者が冥界ドゥアト)を通過する際の注意点や、魂の個々の要素を保存・保護する方法などを多数の祈祷文や呪文という形で記した葬送儀礼である。

とあるように、エジプトの神は「死者のためだけに」定義された架空の存在だ、ということを「死者のための神」といって、言外に揶揄しているのです。イスラエルの神はそうではなくて、「生きている者のための、実在する神」だ、と主張しているわけです。

www.cnn.co.jp

福音書には、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

とありますが、そういう地域性に原因する事情を知らずには、なかなか理解できないことの一つではないかと思います。

結局、イスラエルの神も、他の神と比較することによってしか、存在を主張することができない、ということになりますね。さまざまな神話で語られる神々のなかの一人に過ぎないからでしょう。競い合ったところでどれもこれも似たりよったり、架空の存在でしか無いことに違いはありません。