キリスト教の問題点について考える

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聖とは何か

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「聖である」という言い方をしますよね。「聖と俗」ともいいますが、聖とは何のことでしょうか。聖書に初めて出現する「聖」は、創世記にあります。読んでみましょう。

創世記3:24

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 「回る炎の剣」がわかりにくいのですが、フランシスコ会訳では、

神ヤーウェは人を追い払われた。そして生命の木への道を守るためにエデンの園の東にケルビムときらめく炎のつるぎとを置かれた。

となっています。

聖とは、それに触れようとする者を殺そうとするかのような、強烈なストレスの象徴であったことを伺い知ることができます。

次にレビ記をみてみましょう。

レビ記10:1-3

さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、 10:2主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。 10:3その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。

 ここにもわかりにくい表現がありますので、頭の部分をフランシスコ会訳からみておきましょう。

アロンの 子ナダブとアビフとは、それぞれ 自分の 香炉を 取ってこれに 火を 入れ、その 上に 香を 置き、ヤーウェの 定め 以外の 別の 火をそのみまえにささげた。

まだわかりにくいのですが、おそらく、ナダブとアビブは、香を薫ずるための火、おそらくは石炭か木炭だと思うのですが、それを熾すための手順を、定められた手順ではなくて、より容易な方法をもって行ったのでしょう。しかし、それは許されざる悪行だった、というのです。彼らには死が与えられました。今では考えられないことです。例えば、講壇上の聖書を片付けるときに、右手に何かものを持っていれば、左片手で行ったとしても、それほど目くじらを立てる人はいないでしょう。この箇所からは何を学ぶべきなのでしょうか。

 

以前、我が家を含む眷属一同は、ほとんどキリスト教徒であることを説明しましたが、子供の頃、よく言い聞かされたことに、「決して行ってはならないこと」として、聖書や信仰生活に関することについて、ふざけたり、笑い話にしたりすること、がありました。そんなことをするぐらいなら舌を噛み切って死んでしまいなさい、とも言われました。そしてレビ記のこの箇所が引き合いに出されたのです。

我が家は比較的寛やかなキリスト教家庭でしたので、この指導があったことは、特によく覚えています。

ネットには、「クリスチャンあるある」などといって、信仰生活や聖書解釈などを笑いものにして楽しんでいる人がいるように思いますが、そういうのをみていますと、キリスト教をやめた僕でさえ、ちょっとどうかと思います。

神を遠ざけているのは、実際には人間のほうなのではないでしょうか。自らの主義や信条を貶めることを楽しみにすることほど汚らわしいことはないと思います。自身の大切なものが抜け落ちてカスカスの人生になってしまうでしょう。

信じているのなら、大切にしてください。それが「聖」の本当の意味ではないでしょうか。