キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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神の幼少期

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新約聖書外典のひとつに、「トマスによるイエスの幼児物語」というものがあるのだそうです。次のサイトで紹介されています。

恐るべき幼時のイエス

少し引用してみましょう。

律法学者アンナスの息子が柳の枝をとり、イエスが集めた水を流してしまう。腹を立てたイエスが少年に向かって「目の前の木のようになるだろう」と言うと、少年は木のように立ち枯れしてしまった。またイエスが村を歩いていると、走ってきた子供がイエスの肩にぶつかった。ここでもイエスは腹を立て、「もうこれ以上進むことはないだろう」と言うと、少年は即座に倒れ、死んでしまった。

子供のころは、随分気が短かったようですね。これは外典ですが、正典である福音書にだって、結構アレな記述がありますよ。たとえば、悪霊をブタに閉じ込めて崖から落として殺してしまった、だの、水の上を歩いた、だの、樽いっぱいの水を上等のぶどう酒に変えた、だの、甚だしきは、死んだのに三日後に生き返っただの、とても正気の沙汰とは思えないトンデモな内容でいっぱいです。

また、使徒行伝には「アナニアとサフィラの物語」という箇所があります。引用してみましょう。

使徒行伝 5:1-11

ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

随分簡単に人が死んでしまっていますが、イエスの幼少期物語に似たところがあるように思います。僕は、こういう表現こそイスラエルに由来する宗教の本質を表していると思います。

レビ記 10:1-2

さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

「異火」とは聞き慣れない単語ですが、要するに異教に関する火を用いて香を薫じて捧げた、ということなのでしょう。日本にも「忌火」という考えがあり、神饌の煮炊きは特別な火を用いる決まりがあるようです。

そんなことのために、と感じますが、神はそれで良いわけです。人の命よりも、「神聖」を守ることは重要なことだからです。人が人を殺すと神によって裁かれますが、神が人を殺すことは全く自然なことです。たとえ老衰によって死んだとしても、それは、神が彼を殺した、ということになります。

神とは、本来「トマスによるイエスの幼児物語」に描かれたイエス様なのです。神は人の生命を好き勝手に活かしたり殺したりするものなのです。

そういう「神」という存在を畏怖することが、政治であり、宗教でもあったのです。ところが、徐々に様式が洗練されていくうちに、政治にそのような要素は不必要になってしまったので、神の性質が都合にあわせて変化したわけです。

ですから、「地震や天災で死ぬことは神の罰の現れ」と考えている人は、オリジナルに忠実な人であって、宗教的にみれば「正しい」ということになると思います。