キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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福音書にある都合が悪い記述

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マタイの福音書には、次のように記されています。

マタイの福音書10:7-8

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

いかがでしょうか。聖書の記述をその文字通りにしか受け取ることができない、とするのであれば、牧師や神父は、信徒から一円も受け取ってはいけない、ということになるでしょう。神からただで受け取った恵みを、対価を取って分け与えることは犯罪だ、と指導されているのですから。まして、その指導は神自身が直接行ったと記されています。

また、こうもあります。

マタイの福音書10:;9-10

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。

この指導に従うのであれば、キリスト教の指導者たるものは、そもそも無一文でなければならないはずです。またかれらは、賛同者によるお恵みだけで、かろうじて飢えを凌ぐべきだとも指導されています。

また、キリスト教の指導者になりたいのであれば、病人を癒やす能力、死人を蘇生させる能力、らい病患者を清める能力、悪霊を追い出す能力が必要であるはずです。必要というよりは、それらの能力が無い人は、キリスト教の指導者になってはいけない、ということになるはずです。

聖書の記述には、確かに、書かれてあるそのままの意味で読むところと、比喩を用いて表現されているので、適宜読み替える必要のあるところがあります。この箇所であれば、

病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。

 は、「財産(持ち物)」という名の「病」から人を救い出しなさい、という意味の指導だと読み替えるべきところで、

ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

は、そのままの意味を、変更せずに読み従うべきところでしょう。

いかがでしょうか、教会とは、教会が金持ちになり、教会に依存して生きている職業人たちが安心して生活できることを第一義として聖書を恣意的に解釈し、それを信徒に教え込んでそのとおりだと納得させるところの産業でしかないのです。

上に説明した通り、読み替えるべき箇所を正しく読み替えたところで、産業としての教会の都合には適しない解釈にしかなりません。信徒は、産業としての教会の都合に合わせた、歪んだ聖書の解釈を押し付けられていたのです

キリスト教という宗教が発足した時点で、福音書の意義は失われたということになるでしょう。