キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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何を信じれば良いのか

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キリスト教徒は、「イエス様を信じている」と言いますが、一体何を信じている、と言えるのでしょうか。福音書を読んでみましょう。

ヨハネ伝 6:47-51

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

一から十まで、過剰なまでに説明をおこなう、説明書的文章に馴れてしまっている現代人は、福音書のような、様々な要素を略して読み手に委ねる文章を読み解くのは得意ではありません。それで、「神学」とか「聖書学」とかいう奇妙奇天烈な学問分野が興って、なんとか聖書にある文字の間とか行の間を埋めようとするわけですが、結局、自分たちの飯の種である、キリスト教という看板が降ろされてしまわないように、という思いを恣に結論を出しているに過ぎない、というところが実情です。

エス様当時、宗教には二種類の様態があった、と整理することができるでしょう。一つは仏教、儒教ゾロアスター教、といった東洋的な精神世界であり、一つは、ローマ・ギリシャ神話、メソポタミアウガリット、シリア、パレスチナ地方などに見られた、生活の利益を願うための自然崇拝です。

キリスト教は、ユダヤ教という、二種類のうちの後者から、東洋的な展開を遂げて二種類のうちの前者への進化を遂げようとしたものの、三柱神 など、慣れ親しんだ土着の習慣を捨てきることができず、中途半端な状態でバランスが取れて、固定化されてしまった状態、と言えるでしょう。

例えば、上に挙げた箇所などから見て、イエス様が、何を信じなさい、と言っているのかと言うと、「私の説明するロジックが正しいと信じなさい」と読むのが正解なのですが、「私を信じなさい」と言っている、と読もうとするので、イエス様は神様だ、というように話が歪んでしまうわけです。

エス様の説明とは、つまり、「持ち物を捨てなさい」ということで、持ち物とは、物欲、名誉欲などのことです。人生において余計な重荷とは、「欲」のことに他ならない、ということ、福音書を通して説かれている、その説明を噛みしめるように理解して、自分自身の考察で色付けしなさい、という意味で、私はパンだと表現したわけです。聖餐式でパンを食べたところで、何一つ「忠実な記憶」にはならないのです。おわかりいただけるでしょうか。

神は実在する、と理解することにも大反対はしませんが、神が、完璧な存在だと理解するのであれば、例えば、善意で神社へ参拝するものを、その理由だけで断罪するはずが無い、と思いたいところです。また、人が、苦悩や煩悶を経て、右往左往しながらようやくの思いで生きていることもご存知のはずです。神が親のようなもの、と考えるとき、失敗したものを切り捨てて死後地獄に堕とす、ということはあり得ないのではないでしょうか。

人間が一生懸命に考えて、善いものを抽象化した結果がいろいろな神様なのだけれども、所詮は人間の考え出したもの、いくつかのポンコツは隠しきれないようです。でも、一番自分に合った神様を選びなおすことはできます。あるいは、自分は神様無しで行こう、という考えも良いと思います。

少なくとも、「信仰」が「心や体の負担」になっているのであれば、それは、あなたの神では無いものを拝んでしまっているからです。

神が全知全能であるのならば、人の苦悩を見逃すはずが無い、と信じたいところです。