キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

聖伝ミサの実践者はライ病患者?

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sthughofcluny.org

 

何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?

blog.goo.ne.jp

というブログ記事を見つけました。カトリック教会の典礼様式は、第二バチカン公会議(1962年~1965年)によって現代的に改革されたのですが、それ以前の古典的な様式のミサである「聖伝ミサ」を懐かしむところの記事であるようです。

引用してみましょう。

1969年、教皇パウロ六世は聖伝のミサの新しい司式のやり方を導入しました。この新しい典礼様式は、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものでした。

何を何から断絶させるのかがわからないですよね。イエス様は、ミサの様式を聖書で規定しているのでしょうか。

第二バチカン公会議パウロ六世の新しいミサとは、実際上「教会の春」などではありませんでした。たとえ一部の教会高位聖職者がそう言い張ったところで、事実は別のことを指し示しています。何故なら、たとえばフランスでは今後2015年までにほとんどの小教区では司祭が不在になるからです。スイスでは、司祭の不在現象は突如として加速的に増え、平信徒によって運営される平信徒の教会が2018年に到来することになると予想されています。

しかし、カトリック教会の魅力は、まじないのような聞きなれない言語、きらびやかな祭服、大げさな動作、香の煙に満たされた薄暗い堂内、陰鬱なオルガンの音、抑制された発声で歌われる宗教歌、こういった情緒的で一次的な状況にこそあるのであって、これらを実務的で無感情なものに改変してしまうことは、元来の魅力を削ぐことになってしまうのでしょう。

古風な迷信に振り回されることが真価であって、信者はそのような状況を望んでいるのだということです。イエス様の教えなどはどうでもいい、ミサという豪華絢爛なショーを開催し、演者と見物人を満足させて興行収入を得よう、というようなところが実際のカトリック教会なのです。

教皇ベネディクト十六世の、枢機卿時代の次の発言をご覧ください。

ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト十六世)は、その著書の中でこう言ったことがあります。
典礼の領域における意識の形成のために、1970年まで実施されていた典礼形式を追放していることを中止することが重要である。現在、この典礼が有効であると介入する者、或いはこの典礼を実践している者は、あたかもライ病患者であるかのように取り扱われている。

さすがは前時代的な儀式を好むだけのことはあって、ハンセン病患者を差別する有様も大時代のママだということのようです(笑)。