宗教の発生には二種類の要因があると思います。たとえば日本の神道ですが、元々は自然崇拝であって、アマテラスの実体は太陽であろう、ということを、無理も苦労もなく想像することができます。
農耕という生活の手段において、人間がどうしようもないこと、といえば自然の猛威です。嵐、水難、地震、山火事、日照り、寒い夏、温かい冬など、どのように努力してもそれを避けることができないとき、それを神とみなして、なんとか鎮まってくださるように、と願うわけです。日本語の「祈る」とは元来「慰、宣る」であって、荒ぶる神の霊に語りかけて、なんとか安らげていただこう、と努力することであったのです。
一方、ユダヤ、キリスト教の神、おそらくはイスラームも同様だと思いますが、自然現象を神格化したものではなくて、国家を神格化したものです。
ユダヤ教の神はイスラエルという国家であり、キリスト教の神はローマ帝国という国家そのものであったということです。
キリスト教は、旧ローマ帝国、新ローマ帝国の国教として発展し、ビザンチン消滅の後も、帝政ロシアの国教となりながら、政治の道具として花開いたわけです。
日本の正教会の祈祷書にも、「我が国の天皇、皇后、東宮、東宮妃、諸宮家、および諸皇族のために」という連祷があります。テモテ書簡に拠る結果です。読んでみましょう。
テモテ書簡 2:1-3
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
しかし、日本の皇室は正教会に祈祷してもらうことを望んではいないのですから、結局はロシアの定文を機械的に日本語に翻訳して、それを愚直に唱えているだけだ、ということにしかならないでしょう。
キリスト教という宗教は、国家が国家運営のために応用するためのものであって、それ以外の用のためには有効性を発揮することが出来ないものなのです。
たとえば、カトリック教会は、「バチカン」という国を作り、「教皇」という皇帝を立てて擬似帝国の宗教、という体裁に落ち着いているようですが、それでは、国家が神である、という要件を満たしていません。
また、福音派の小集団達は、それぞれの牧師が国家元帥である国粋主義を打ち立てようとしているようですが、結局は低俗な思想団体ぐらいにしかなることができていません。
つまり、ユダヤ教はともかくとして、キリスト教という宗教は、現代において、その効力を発揮できる機会を失ってしまっているのだ、と言えるわけです。