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でも引用したのですが、もう一度、空の鳥と野の花の説教を見てみましょう。
マタイ伝 6:26-29
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
この箇所は、上で引用した敬和学園の学長のような、鳥や花でさえも生きているのだから、人間であれば、当然、神がより保護してくれるのだから心配するな、と言っているのだ、と解釈するのがほとんどのように思うのですが、残念ながら違います。そのような解釈では、人間も、鳥や花のように働かなくても、別にかまわないんだよ、と言っていることになってしまって、支離滅裂となってしまいますよね。
そうではなくて、名誉や富貴、飽食、淫蕩を求めなくとも、人は生きて行けるのだよ、ということを言っているのです。鳥や花はどうか、見てみなさい、というわけです。何も求めなくても花は自ずから美しいし、鳥も飢えることはないではないか、美しさや満足とは、知識や財産の多寡ではなく、人間の内面の問題を言っているのだ、と教えているのです。
福音書を通して、イエス様は、何度も「持ち物を捨てなさい」と諭しています。この箇所も、空の鳥や野の花を見て安心しろ、と言っているのではなく、かれらのように、持ち物を捨てなければ成長できないよ、と言っているのです。
福音書には、仏法のエッセンスが込められている、ということがおわかりでしょう。煩悩を滅却すれば、真如が見える。宗教の教えとは、根底で一つに繋がっている、ということです。死後天国か地獄か、なんていうことは、物事の本筋では無くて枝葉であり、生きていない話の進め方に過ぎないのです。
そうではなくて、どう生きるか、どのような社会を目指すのか、ということだと思います。