キリスト教の問題点について考える

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放蕩息子のたとえ

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ジェームズ・ティソ - Wikipedia


ルカ福音書15章の11-32に、「放蕩息子のたとえ話」という一節があります。Wikiでは、

放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし、英語: Parable of the Prodigal Son)は新約聖書ルカの福音書(15:11 - 32)に登場する、イエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえ話である。

このたとえ話は、福音書に登場するたとえ話のうちで最もよく知られているもののひとつである。

とあり、このたとえ話の主人公は父であって神を象徴しており、弟が、罪を悔いて神へ立ち返る良い信者を、兄は、神の恩恵を理解できずにねたみ、神よりも律法により頼む、誤った信仰に偏った悪い信者を象徴している、と説明しています。

一般的にはこの理解が行われているでしょうし、ほとんどの方は、教会でもこのような説教を聞かれたことと思います。

しかし、そのような意味を示すだけであるならば、わざわざこのようなたとえを話しする必要はないでしょう。旧約聖書が示すユダヤ教世界であっても、神は、律法に反して罪を犯してしまったとしても、心から悔いて立ち返るものを拒否する存在ではなかったはずです。また、律法の表面ばかりをなぞって、本質を知ろうとしないファリサイ人的な姿勢がよくないところである、という認識もあったはずです。だから福音書でイエス様が批判しているわけです。

このたとえ話でイエス様が一番言いたかったところは、弟が、財産を使い果たした後、正義に立ち返った、ということです。財産に頼って生活することと、正義を行うことは両立しないのです。父はこう言います。

子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである

財産を持っている状態が「死」であって、財産を捨て去った状態が「復活」なのだと説明しているわけです。財産とは、お金などの持ち物のことでもありますが、名誉欲、食欲、性欲など、すべての欲望を示しています。それら、すべての持ち物を捨て去ってしまわなければ、本来の人間性を回復することができないのですよ、ということが、このたとえの最も重要な点ではないかと思います。

エス様は「財産を捨てなければならない」ということを、たとえを変えて、あるいは直截に、何度も何度も、福音書で教えておられます。

同じルカ福音書から、別のたとえを見てみましょう。放蕩息子のたとえを語られる直前に言われたものです。

ルカ福音書14:26

だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

 ルカ福音書14:31-33

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

福音書を読めば読むほどに、イエス様の教えの本髄は、「捨ててしまうこと」である、ということを理解することができると思います。

教会に集まって歌を歌ったり、パンを食べたり葡萄ジュースを飲んでありがたがったり、死後の世界はどんなだろう、と死者との邂逅を夢見たり、地獄の恐ろしさに打ち震えたり、福音書とはまったく関係ないことばかりに振り回されているのが、実際のキリスト教徒だというところが現実なのです。