キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

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善と悪

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創世記やヨブ記では、人に訪れる転機や試練、苦悩、と言うような事柄を「悪魔」という存在に例えて説明していますが、悪魔は神の手下、または神の一部として表現されています。一見、悪としか理解できないような事柄であっても、実際には恩恵である場合もある、と教えているわけです。

過去の記事「悪魔」も参考になさってください。

善とは「安定」であり、悪とは「不安定」である、と整理することもできるでしょう。プレートのズレによって不安定が生じ、地震という現象によって安定を取り戻します。地震は、人に災害を及ぼして不安定を与えますが、自然にとっては安定を取り戻すことになります。

申命記 3:1-6 を読んでみましょう。

そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。われわれはヘシボンの王シホンにしたように、これらを全く滅ぼし、そのすべての町の男、女および子供をことごとく滅ぼした。

ここで、イスラエルにとっては、神に命じられてオグの国民を殺戮することは正しいこと、「善」であったわけですが、オグの国民から見れば、狂気の集団が、不法に略奪を行った、となり、イスラエルは「悪」である、ということになるでしょう。

善悪は相対的なものであり、世の中には絶対的な善や悪は存在しないのだ、ということがわかります。殺人は絶対的な悪ではないか、と思わるかもしれませんが、それも人が決めたルールなのであって、自然界全体からみれば、やはり「相対的である」という観察が揺らぐわけではありません。

人が安定的に生活を続けるためには、何をどのように理解すればよいのか、その一つの提案が宗教であり、ゾロアスターのような二元論であれば、神を安定の、悪魔を不安定の象徴とし、アブラハムによる一元論であれば、神がその両方の象徴になります。

しかし、このように事実を無味乾燥な言葉で羅列したとしても、人の心にはなにも響きません。政治的に善悪を区分する必要を満足させるためには、寓話化が必要だったというわけです。それが「聖書」だということですね。

日ユ同祖論 に同調するわけではないのですが、日本の神は善悪同源であって、一神教的だと思います。伊勢の神宮には「荒祭宮」がありますが、神宮正殿には主祭神の和御魂(にぎみたま)が、荒祭宮には荒御魂(あらみたま)が祀られていて、安定と不安定の根源が同じであると理解していることがわかります。また、京都の八坂神社は、荒御魂を祀る社を「悪王子社」と呼んでいて、「悪」の本来の意味が、荒々しい、とか、力強い、ということであったことを伝えています。

 

少なくとも、神と悪魔が戦っている、だの、現代社会は悪魔に支配されている、だの言っている教会や牧師は、「一神教」の意味を理解できていない、ということになるでしょうね。