キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

札幌光星学園神父刺殺事件

ja.wikipedia.org

 

札幌光星学園神父刺殺事件、について記します。今回の記事は、5ちゃんる宗教板の重鎮のお一人である、アストリッド (グノーシス派)さんからのご提案により作成しました。

ウィキから概要を読んでみましょう。

1997年3月7日、当時のカトリック教会マリア会の日本管区長であった神父は、年度末巡礼で札幌光星学園を訪れていた。その時に札幌光星学園の修道院の前で、この訪れていた日本管区長が腹から血を流して倒れているところが発見される。修道院には部外者は入れないため、これは内部の者による犯行ではないかと思われ関係者を集めたところ、札幌光星学園の修道士の姿が無かった。この修道士は神父を刺殺した後、修道院の自室で内側からを掛けて、包丁で腹を刺して自殺していた[1]

犯行の2時間前に神父と修道士が図書館で話しをしていた。この様子はかなり剣呑であった。自殺をした修道士の部屋にはメモが残されていた。これには人事異動に対する不満と、神父を許せないことと、自身はしてはならないことをしてしまったことが書かれていた。自殺した修道士は元々は刺殺された神父よりも上の立場にいる人間であった。だが1990年に刺殺された神父は日本管区長に選出されたことから立場は逆転していた。刺殺された神父は自殺した修道士に東京の修道院への異動を強く迫っていた[1]

自殺した修道士の救急車での最後の言葉は「札幌が好きだった」であった[2]

後日修道士と神父の救いを祈るレクイエムミサ札幌光星学園の聖堂で催され、暁星学園卒業の教え子も参加した[2]

実に驚かされる内容です。修道院というところは、俗世間では実現できない、理想の国、神の国の模倣を実現するところかと思っていたのですが、実際には、ドロドロした出世欲が渦巻く、拙劣な人間関係をしか実現できないようです。

同ウィキの記事から、脚注に示されているPDFの内容を文字に起こして引用しておきます。

「人間以下」と修道士に

  刺殺された神父

カトリックマリア会  ― 煩悩で頭が一杯の我々には 初耳だったが、これはローマに総本部を置き、世界各地で布教活動をしている敬虔なるカトリック系の宗教法人である。日本では暁星学園(東京)、 海星学園 (長崎)など学校教育を通して布教を進めている。 そのマリア会の日本管区長、吉村新一郎神父(六〇) が、年度末巡回に訪れた札幌市の光星学園内の修道院前で、腹から血を流して倒れているのを発見されたのは三月七日のことだった。「三階の図書室の窓が開いていて修道院の外壁には神父の血が付着していた。修道院には部外者の立入りが禁じられているので、内部の者(による犯行)ではないかと思い、関係者に集まってもらったが、 高二の担当をしていた中村勝彦修道士(六三)の姿がなかった。 修道士は内側から鍵を掛けた二階の居室で、刃渡り二十センチの柳刃包丁を腹に刺したまま、仰向けに倒れていた (捜査関係者)。 犯行時刻は午後一時頃と推定されているが、神父と修道士は、その二時間前に図書室で話しているのを別の職員に目撃されている。「二人のやりとりは、かなり剣呑な調子のものだったそうです。 自殺した修道士の部屋からは人事異動への 不満を記した五通のメモが見つかっていて、〝(東京への) 異動は嫌だ〟〝神父は人間として許せない〟〝私はしてはならないことをしてしまった〟などと書かれていた」(地元記者)

一億円の賠償請求 

「神父と修道士は、四十年来の知己だったのです」と言うのは、マリア会本部(東京・千代田区)の神父である。「おふた方とも敬虔なカトリックの家庭に育った方で上智大学の同窓生です。 不仲説などは耳にしたことございません。熱心な教育者でもあった中村修道士だけに、一体何が彼を錯乱させたのか私どもには知る由もありません。事件後、吉村神父のお母様から電話を戴き〝二人はともに天国に召されたのですね〟 と言われたのが唯一の慰めです」 が、別の見方をしているマリア会関係者もいる。「神父と修道士はもともとうまくいっていなかった。 中村修道士は大学時代から吉村神父の先輩格で、 海星学園時代にも指導的な立場 にあったが、七年前に吉村神父が管区長に選出されて立場が逆転した。神父は東京の修道院への異動をかなり強く迫っていたが、修道士はこれを事実上の引退勧告と取ったのではないか」 実際、吉村神父は相当に強引な人だったようだ。現在、大いに紛糾しているのがマリア会が経営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクール (横浜市) の廃校問題である。「亡くなった人の悪口は言いたくないが、吉村さんのやり方はひどかった」と言うのは、先月吉村神父らに一億円強の損害賠償請求訴訟を起した八十八人の原告団の一人である。「理事会が廃校の方針を打ち出したのは二年前、吉村神父が理事長に就任した直後です。慌てて仮処分申請をし、昨年九月には最年少児が十八歳になるまで、向う十四年間は存続させる、ということで和解が成立 したのですが、学校側はその後も父兄のもとにアメリカの学校に転校させたらどうかなどの手紙を送り続けた。完全な違約です」 父兄が説明を求めに出向くと、あろうことか学校側は警察を呼んだという。 「実はマリア会はバブル期にロンドン郊外に学校を造っているんです。この時、資金集めに奔走したのが当時、副管区長だった吉村さんで数十億円の資金を集めたそうですが、この学校がまた赤字で・・・・。 横浜の廃校話も、その穴埋めではないかと言われているんです」(先のマリア会関係者)

果たして、たとえどのようなことが起ころうとも、全力を尽くして組織を守ろうとするのが宗教というものである、ということのようです。

しかし、この事件は、格下の上役からのハラスメントに耐えかねた下役の男が、その上役を刺殺してしまったのだ、ということに過ぎません。被害者の上役である神父もまた犯罪者めいています。それでも、母親をして〝二人はともに天国に召されたのですね〟と言わしめるのが宗教の麻薬性であり、少なくとも一人は殺人犯で、告解を行わずに自ずから絶命した大罪人であるのに、そのものを含めた「二人の故人」のためにレクイエムミサを実施して、それらの魂の安寧を神に願うことが宗教の詭弁性であると思います。

カトリック神言修道会の神父が女性信徒を性的暴行

ja.wikipedia.org

「「神父から繰り返し性暴力」 女性信者、修道会相手取り提訴へ」という報道がありました。

news.livedoor.com

記事にある「神言会」とあるのは、カトリック教会に属する修道会の一つで、名古屋の南山大学を経営しています。記事を引用します。

2023年11月16日 18時0分 朝日新聞デジタル

 カトリック信者の女性が、外国人神父からの性被害を訴えたにもかかわらず適切な対応をとらなかったとして、神父が所属していたカトリック神言修道会名古屋市)を相手取り、慰謝料として3千万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴することがわかった。

 女性は東京在住の60代の看護師。女性や代理人の弁護士によると、女性は2012年、子どものころに受けた性暴力について、当時通っていた長崎市内の教会の外国人神父に対し、「告解(こっかい)(ゆるしの秘跡)」で打ち明けた。すると、神父から「やり直しをしなければダメだ」などと言われ、霊的指導として17年末ごろまで繰り返し性交を強いられたという。

 相談窓口や神言修道会のトップである日本管区長に被害を伝えたところ、修道会は19年に「性犯罪を行い、貞潔誓願を破ったと告発されていること」「彼の司祭としての行動は信者の間に嫌悪感を抱かせたこと」「将来スキャンダルを引き起こす可能性があること」を理由に聖職を停止し、共同生活から離れる3年の「院外生活」を決め、神父に100万円を渡して母国への帰国を認めた。

 女性側は、調査は不十分で神父からの謝罪もないと主張。修道会が、その後再来日した神父の所在を把握していたにもかかわらず、女性側に伝えなかったなどと訴えている。神父については所在がわからないため、修道会のみを提訴する。

 女性は性被害の影響で悩み、精神科に通院している。取材に「救いを求めた教会で被害に遭った。信仰心を利用したこうした被害が起こっていることを知ってほしい」。代理人を務める秋田一恵弁護士は「神父は告解を利用して彼女の重大な秘密を知り、それに乗じて性加害を繰り返した。修道会は性被害の事実と加害者を組織的に隠蔽(いんぺい)している」と語る。

 修道会の荒田啓示事務局長は取材に「神父は性行為を否定していた。訴状の内容を確認してから対応したい」と話している。(編集委員・大久保真紀)

なんとも聞き苦しい話ですよね。キリスト教の神父や牧師はほぼ間違いなく色魔だと思って間違いないのではないでしょうか。嫌な思いをしたくない人は、教会に近づかないほうがいいと思いますよ。

 

聖書の読み方 ー キリスト教徒とユダヤ教徒

juancarlias.blogspot.com

申命記を読んでみましょう。

申命記 22:10-11

牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。

キャッチアイ画像を頂いたサイトから引用してみましょう。キリスト教徒のこの箇所に関する考え方は次のようなものです。 googleの翻訳機能による翻訳文です。

旧約聖書では、申命記 22 章 10 節に、牛とロバを一緒に使って耕してはならないと書かれています。興味深いのは、牛はきれいな動物ですが、ロバはそうではありません(Lv 11)。ロバを飼っていない、または使用しないとは言っておらず、(耕したり、仕事をするために)ロバをくびきでつないでいないだけです。 )、それらは2つの種が異なるだけでなく、神の目には一方は清く、もう一方は汚れているからです。 

パウロは、くびきをくびきで結びつけたときの聖人(信者)と不信者(迷っている人)の間の5つの明確な対照を示しています。

1. 正義 - 不正義
2. 光と闇
3. キリスト - ベリアル (サタン)
4. 信仰(信者) - 信仰の欠如(不信者)
5. 生ける神の神殿 - 偶像
神が私たちに警告するこの「不平等な結合」は、ボーイフレンド、ガールフレンド、夫や妻などの恋愛関係だけでなく、事業や会社を立ち上げるためのパートナー関係などの経済的関係、さらには友情や日常の関係にまで及びます。人々は同じ側に向かって一緒に「歩き」始めます。 

つぎに、前回記事でもご紹介した、『ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集』という著作から同箇所に関する記述をご紹介しましょう。

人と違うようになるための教育
 これは古代からある説話で、子どもを一律に教育しても、決してうまくいかないことを教えている。ヘブライ聖書では、子どもの一律教育、護送船団方式の教育を禁じている。個性が封じられてしまうからだ。教室教育の弊害をユダヤ人は嫌というほど知っている。
 ユダヤの教育は、一人一人の個性を伸ばすマン・ツー・マン教育だ。聖書の記述にはこうある。

   「牛とロバとを同時に一つのくびきにかけ、鋤を引かせてはならない。
    ウールと亜麻糸を混ぜて布を織ってはならない」

    (申命記22章・10〜11節)

     
 牛とロバに同じく引き(一律教育)をはめても、うまく畑を耕せないどころか、二匹ともう疲れてしまう。大きさもも力も異なる二匹の動物を同じように扱ってはならない。日本の教育はまさにこの例えに合致しているのではないだろうか。

 

石角完爾.ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集(集英社ビジネス書)(p.233).株式会社集英社.Kindle版.

著者の石角完爾さんは、ユダヤ教に改宗された日本人ですが、「超正統・ウルトラオーソドックス」である派閥に属するラバイ(ラビ・ユダヤ教の教師)について学んだ、と説明されていますので、この解釈は革新的、前衛的というわけではなくて、ユダヤ教の伝統的で保守的な解釈だと言えると思います。

いかがでしょうか。聖書の同じ箇所に対する説明のはずですが、全く違いますよね。キリスト教という宗教はユダヤ教から聖書を拝借はしたものの、大切な、言い伝え(タルムード)を捨ててしまったので、聖書を正しく理解することができなくなってしまっているのです。上のキリスト教徒の説明文は一体何を言っているのかさっぱりわからないですし、この説明では、聖書ってずいぶん軽薄なものなんだなと感じてしまいます。一方、石角さんの説明は、なるほどそうかと、聖書の深長さを伺うことができるように思います。

キリスト教徒にとって聖書は、してはいけないことをした人を、あるいは、しなくてはならないことをしなかった人を罰するためのマニュアルとしてしか機能しなくなってしまっているのではないでしょうか。聖書の文言は、呪いのサンプル集としてしか活用されていないのではなかと感じます。

ユダヤ教徒が聖書から何を学ぶのかをご理解いただけたでしょうか。キリスト教徒とは全く違うということがおわかりいただけたと思います。彼らは聖書から生活を学んでいるのです。キリスト教のような、教会堂の中でしか通用しない絵空事ではありません。呪いや罰則でもありません。もっと実生活に密接している、プラクティカルな事柄なのです。そして当然ながら、聖書はユダヤ教徒が読み取る、その読み方が正しい読み方です。呪いだの清潔不潔だのという読み方は間違った読み方でしかありません。キリスト教徒はどう頑張っても聖書を正しく読み解くことはできないでしょう。僕は、おそらく福音書など新約聖書であっても、ユダヤ教徒に読んでもらったほうが、正しい意味を読み取ることができるのではないかというふうに思います。

ユダヤ教徒にとって聖書は、人の生活を助ける生きた糧、でありますが、キリスト教徒にとっては、死後を占う文書、人を呪う文書、拙劣な精神を形成するための死んだ文書でしかないのです。もったいないですね。

アブラハムとレハレハ

fromdanielsdesk.com

創世記を読んでみましょう。

創世記 12:1-2

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

神はアブラハムに、すべてを捨てなさいと命じます。そして、その通りに従ったアブラハムは、約束通り、神の民の根株となりながら大いなる祝福の基となりました。

次に、

www.shueisha.co.jp

という著作から引用してみましょう。

ヘブライ聖書によれば、ユダヤ人の始祖であるアブラハムは、ある時、「レハレハ」(すべてを捨てて新しい土地へ行け)」と、神から告げられた。父の土地を捨て、親から引き継いだ豊かな生活を捨て、全く新しい土地に行き、もう一度ゼロから始めなさい、と。同じところにとどまるのではなく、自分の場所を離れて、新たにすべてを始めることを神はアブラハムに命令したのである。「レハレハ」そのものは、「レッツ・ゴー」という意味だが、神の本意は「Let's go with everything left.」ということ。つまり「財産も土地も捨てて、身一つで新しいところへ行け」と神は言ったわけだ。

 

石角完爾.ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集(集英社ビジネス書)(p.158).株式会社集英社.Kindle版.

ユダヤ人は、聖書からこのような精神性を学び取っているのです。

引用を続けましょう。

何も失わず、楽して成功することなどあり得ない。ユダヤ人の子どもたちが、幼い頃から親に叩き込まれる「ノーペイン・ノーゲイン」は、「自己犠牲なくして成功は得られない」という、金銭哲学を超えた人生哲学なのである。 捨てる時期も重要だ。捨てる痛みが先なのである。まず大切なものを捨てよ、と教える。ゲインが見えてきたら捨てよう、ではダメなのだ。得るために捨てるのではない。捨てなければ道が開けないのだ。
 捨てることをしないため、結局倒産した企業の例は多い。例えば、コダックはフィルム事業を失いたくないとしたためデジタルカメラの流れに乗れず、結局すべてを失って倒産した。ユダヤの教えは現代のビジネスに通用するのだ。

 

石角完爾.ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集(集英社ビジネス書)(p.33).株式会社集英社.Kindle版.

新約聖書ではどうでしょうか。読んでみましょう。

マタイによる福音書 19:21-22

エスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

おわかりでしょうか。福音書に記されているこの個所の意味は、ユダヤの価値観「レハレハ」に基づく発言だったわけです。新約聖書であっても、ユダヤの民族的な価値観を知らずには理解し得ない部分があるということです。実際には、タルムードを学ばずにイエス様の真意を識ることはできないのです。だから、イエス様は、イスラエルの家の失われた羊のためにつかわされたのだ、と発言したわけですね。

最後に同書からもう一箇所引用しておきましょう。

 この「レハレハ」という言葉は、実際に別の新しい場所へ行けということではなく、自分自身の内面に深く入って、全く知らなかった新しい自分を見つけなさいということなのである。なんと示唆に富んだ言葉だろう。

 

石角完爾.ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集(集英社ビジネス書)(p.161).株式会社集英社.Kindle版.

 

聖母マリアの正体

パン焼釜は穀物女神の化身と考えられ、みごもった母神の腹部に似せて作られた

Portal Trag より

 

キリスト教世界における聖母マリア崇拝は、ヨーロッパにおける地母神崇拝の後継として存在する、ということはよく知られたことであります。今回記事では、北海道大学の久木田、直江両氏による「穀物女神の継承者としての聖母マリア : 神秘の釜の図像をめぐって」という文書から考えてみましょう。画像は、本文に採用されているものと同じ画像で、鮮明なカラー画像をネットから集めて掲載し直しました。採用元サイトも明記しておきました。では本文から引用します。

麦穂のマリア amazon.es より

地母神の生命力は民間信仰の中に生き永らえ、 初期キリスト教にも融合されマリアの複雑な様相の中に息づく。 中世でも、大地母神崇拝はマリア崇敬の中に生き続け、「麦穂のマリア」として知られるグレイン・マリアの中に一つの様相を呈している。マリアのガウンの麦穂は、マリアがキリストを受胎し救いの麦を成育させる「共同 蹟い主」(Co-Redemptrix)の象徴であり、受肉の過程で麦を変容させ、胎内で生命のパンを焼成する「聖なる器」 としてのマリアを暗示している。 
麦粒の宗教的象徴性についてケレーニイは、「デーメテール賛歌」の穀物は、「消滅と復活を思わせる回帰」を象徴すると解釈している。また、乳母としてのデーメテー ルの奇妙な振舞 (不老不死の身体を与えるために、赤子を火の中に入れる)も、穀物の運命を暗示している。穀物はパンとなる ためいったん火によって死ぬが、死を克服して人間の生命の糧となる。大地なる母の胎内から生まれ、粉に挽かれ、釜で焼かれてパンになる穀物の運命は、マリアの胎内で実を結び人となるキリス トを連想させる。

神秘の臼 WIKIMEDIA より

スワビア地方の祭壇画「神秘の臼」(Mystical Mil)では、マリアが漏斗に麦を注ぎ入れ、そこから幼子キリストと聖体が現れでて信者に与えられる場面が描かれている。

さて、キリスト教のシンボルの中では、大母神の子宮はキリストが育まれる汚れない「器」を意味する。ノイマンによると、変容の秘儀は女性の原秘儀の一つであり、変容の器は母胎と同一視される。大母神の胎は「人間を作り、生み、再生させる鍋」であり、マリアの胎は受肉 の変容をおこす聖なる器である。「お告げ」に描かれた花瓶は図像学において、受肉の器、聖体の入る器を表す。

さらに、変容は家の中心にある炉や釜の中で、火を用いることによって行われる。マリアの胎は火と結びつくことで焼釜にかわり、農耕の実りがパンに変化する秘儀と結びつく。

 

お告げ Wikipedia より

 

炉ばたの聖母子 MEISTERDRUCKE より

キリストの受肉とパンの類似は初期ネーデルランド派の絵画にも現れる。ロベルト・カンパンの「メロード祭壇画」の中央の「お告げ」の場面にも、マリアの背後に母胎と思われる炉が描かれている。また、「炉ばたの聖母子」の背景にも二本の柱がかすかに見えるが、この炉もマリアの子宮を象徴するパン焼釜である。堂々と胸を露にし、幼子キリストを抱く聖母は、キリストに糧を与える母神であり、天の糧であるキリストを信者たちに与える原始以来の大母神のように見える。

 

いかがでしょうか、日本の宗教が、明治の神仏分離令や戦時中の国家神道政策によって、建前上は別々の宗教になってしまっているものの、実際には神仏習合であり、神様も仏様もご先祖様も一まとめで自然な信仰であることと同じように、ヨーロッパにおいては、キリスト教の神と五穀豊穣の神は、実際にはそれほど厳しく区分されていないのではないでしょうか。内心の底で求めるものは、豊穣をもたらす大地の神だということなのでしょう。例として説明されている絵画には、そういった本音が自然に表出されているわけです。また、このようなことは、キリスト教成立当初から今日に至るまで、連綿として一本筋の通った表象であると言うことができると思います。

旧約聖書には、幼子を火の中に入れてはいけない、という表現があって、なぜそのようなことをするのかよくわからなかったのですが、この文書によれば、炎による死と再生を願う宗教的な行為であったのだと理解できますし、キリスト教もまた土着の民族宗教の延長ではないとは言い切れないと言えることがわかります。

よろしければ全文を読んでみてください。

ヤハウェはアッラーより格下であること

www.archaeology.org

ウガリットをご存知でしょうか。ウガリット - Wikipedia には、

ウガリットウガリット語𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、Ugarit)は、地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラ(رأس شمرة、Ras Shamra、ラタキアの北数km)にあった古代都市国家。当時の国際的な港湾都市であり、西アジア地中海世界との接点として、文化的・政治的に重要な役割を果たしたと考えられている。紀元前1450年頃から紀元前1200年頃にかけて都市国家としての全盛期を迎えた。この遺跡から見つかった重要な文化には、独自の表音文字ウガリット文字と、ユダヤ教聖書へとつながるカナン神話の原型ともいえるウガリット神話集がある。 

とあります。

bibleinterp.arizona.edu

というサイトを見てみましょう。以下、引用文はgoogleの翻訳機能で日本語に翻訳した文章です。

    何十年もの間、学者たちはイスラエル人の一神教に関する聖書の物語を解明しようと試みてきました。聖書の伝統的な解釈によれば、一神教シナイ山におけるヤハウェとのイスラエルの元々の契約の一部であり、その後預言者らによって批判された偶像崇拝は、イスラエルが自らの伝統とヤハウェとの歴史から後退したことによるものであった。しかし、学者たちは、このプレゼンテーションの根底には多くの疑問があることに長い間注目してきました。他の聖書本文で主張されているような他の神が存在しないのに、なぜ十戒は「わたし(主)の前に」他の神があってはならないと命じているのでしょうか?なぜイスラエル人は紅海を渡るときに「主よ、あなたのような神はいない」と歌う必要があるのでしょうか?(出エジプト記 15:11)。このような聖句は、イスラエル人が他の神々について知っており、単にそれらを拒否したわけではないことを示唆しています。

聖書の神が、元は多神教の神であった、ということは、公然の秘密のよう、といいますか、リベラルな界隈においては常識的なことであると思います。

引用を続けましょう。

ウガリット多神教は、神の評議会や集会、そして神の家族の概念を通じて一元論として表現されます。この 2 つの構造は、基本的に 4 つのレベルを持つ単一の実体として理解されます。70人の神の子供たち(バアル、アスタルテ、アナト、おそらくレシェフ、そして太陽の女神シャプシュと月の神イェラクを含む)は明らかにエルの星として特徴付けられています。神の家のヘルパー長、コタール・ワ・ハシス。そして神の家の召使たち、

    この神の家族と評議会の 4 層モデルは、初期のイスラエルにおいて明らかに多くの変化を経験しました。初期の段階では、ヤハウェはこれらの70人の子供の一人であり、それぞれが70の国の守護神であったように見えます。この考え方は、死海文書の朗読や申命記 32:8-9 の七十人訳の背後に現れています。この節では、エルは神の家族の長であり、神の家族の各メンバーは独自の国家を受け取ります。イスラエルヤハウェの一部です。マソラ本文は、「神の子の数に応じて」という表現で表現されている多神教に明らかに不快感を示し、読み方を「イスラエルの子の数に応じて」(70人とも考えられている)に変更した。詩篇 82 篇には、ヤハウェが立ち上がって他の神々を告発する神の集会を主宰する神エルも描かれています。ここで本文は、その一節が非難している古い宗教的世界観を示しています。

    王政後期のある時点までに、神エルがヤハウェと同一視されたことは明らかであり、その結果、ヤハウェ・エルは女神アシェラの夫となる。これは、エルサレム神殿(明らかに)と上記の碑文における彼女のカルトのシンボルに対する聖書の非難によって表されている状況です。この形では、ヤハウェへの宗教的献身により、彼は他のすべての神々を支配する神聖な王の役割を果たします。この宗教的見解は、例えば詩篇 29:2 に現れており、そこでは「神の子たち」、あるいは本当に神の息子や子供たちが神の王ヤハウェを崇拝するよう求められています。多神教のさまざまな表現を持つ神殿はまた、この場所がヤハウェの権力下にある人々が住むヤハウェの宮殿であると想定していました。エゼキエル書 8 章から 10 章までのツアーはそのようなイメージを示唆しています。この王権の構図は、8 世紀から 6 世紀の一神教によってさらに発展しました。他の神々はヤハウェの力の単なる表現となり、神の使者はヤハウェの力を表現する小さな神の存在にすぎないと理解されるようになりました。つまり、主神が神主となったのです。

聖書がウガリット神話の影響下にあることは疑いようのない事実だと言えると思うのですが、聖書で「エル(複数形はエロヒム)」が神を表す一般名詞として扱われるのに対し、ウガリット神話では、主に、多神教最高神を表すために用いられる、と説明されていて、「ヤハウェ」は主神「エル」の70人の子供の一人であって、イスラエルの守護神としての役割を与えられたのだ、と説明されています。

引用中で話題になっている詩篇82を見てみましょう。

詩篇第82 アサフの歌
神は神の会議のなかに立たれる。
神は神々のなかで、さばきを行われる。
「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、
悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
弱い者と、みなしごとを公平に扱い、
苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。
弱い者と貧しい者を救い、
彼らを悪しき者の手から助け出せ」。
彼らは知ることなく、悟ることもなくて、
暗き中をさまよう。
地のもろもろの基はゆり動いた。
わたしは 言う、「あなたがたは神だ、
あなたがたは皆いと高き者の子だ。
しかし、あなたがたは人のように死に、
もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。
神よ、起きて、地をさばいてください。
すべての国民はあなたのものだからです。

一神教の宗教文書である、という前提で読むと不思議な文章でしかないのですが、「ヤハウェが立ち上がって他の神々を告発する神の集会を主宰する神エルも描かれています。」と理解してよいのであれば納得できますよね。

以上のことがらからわかるように、「ヤハウェ」は一地方都市であるイスラエルの守護神であるのに対し、「エル」は70ある全ての地方都市それぞれに配された守護神たちを総括する主神であるということ、そして、イスラームの神が「アッラー」と呼ばれることは「エル」を継承しているからなのであって、ヤハウェよりも格上の神なのだと言えると思います。

 

BIBLICAL ARCHAEOLOGY SOCIETY (聖書考古学協会)

www.biblicalarchaeology.org

今回は「聖書考古学協会」のサイトをご紹介します。サイトの紹介文には、

聖書 考古学協会 ( BAS ) は、聖書の地における考古学に関する情報の普及に特化した非営利、宗派を超えた教育団体として 1974 年に設立されました。 BAS は、季刊誌Biblical Archeology Review、 受賞歴のある Web サイト、 ツアーやセミナー、書籍や DVD を通じて、考古学と聖書について一般の人々に教育しています 。私たちの読者は、学問が提供する最新情報を公平かつアクセスしやすい方法で提供することを私たちに信頼しています。 BAS は 重要な権威として、また信頼できる情報の貴重な情報源として機能します。

とあります。

2023年8月8日、ジョン・グレゴリー・ドラモンド氏の「サタンとは何者か」という記事から、少しご紹介しましょう。前回記事「悪魔の正体」でご紹介した内容と、ほぼ同様の事柄を主張する内容です。引用する内容は、原文をgoogleの翻訳機能を用いて日本語に翻訳したものです。

www.biblicalarchaeology.org

最もコミカルな漫画から最もグロテスクなガーゴイルまで、今日の人口の大多数は悪魔のイメージをすぐに認識できます。しかし、私たちの現代のサタンの概念は、聖書の悪魔に似ているでしょうか? サタンとは一体何者なのでしょうか?地獄を支配する熊手を持つこの角と赤い肌の怪物は、本当に聖書の著者たちが思い描いた神の偉大な敵なのだろうか?

簡単に言うと、いいえ、そうではありません。

ヘブライ語聖書では、YHWHの最大の敵は悪魔の軍勢を指揮する堕天使でもなく、他国の神々でもなく、むしろ人間です。創造物全体に悪を広めているのは悪魔ではなく、人類です。人間以外に、YHWH には宿敵はなく、彼の権威の下にない悪意のある霊的勢力も存在しません。YHWHは究極的には正義の神です。神は善と悪の背後にあり、祝福と呪いの背後にいます。サタンの起源はこの神聖な正義の法廷と報復の中にあります。

その他にも面白い記事が沢山あります。

www.biblicalarchaeology.org

www.biblicalarchaeology.org

www.biblicalarchaeology.org

どれも中々刺激的な内容です。コメントもぶっ飛んでいておもしろいです。是非どうぞ。