キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

悪魔の正体

mosaicmagazine.com

上にリンクを貼った Mosaic というサイトは、離散ユダヤ人に対して、ユダヤの文化・思想の啓蒙を行い、様々な疑問に答えることを行っているようですが、中に、つぎのような、質問と回答があります。引用してみましょう。以下の引用は、googleの翻訳機能を用いて日本語に翻訳したものです。(何箇所かクッキングホイルが手直ししています)

私は自ら選んだユダヤ人で、1年ちょっと前に正式に改宗しました。私は世俗的なキリスト教徒の家庭で育ちましたが、キリスト教徒の悪魔への執着に常に当惑し、やや嫌悪感を抱いてきました。キリスト教徒は律法に悪魔が登場すると主張しますが、私の理解では、サタンという名前の由来となっている聖書のヘブライ語サタンは、実際には「障害」を意味するのに、「悪魔」と誤訳されているのです。私は正しいのでしょうか、それとも間違っているのでしょうか?

この質問に対する答えには、非常に興味深いものがあります。抜粋してご紹介しましょう。まずはこちらです。

ヘブライ語聖書でsatan(サタンと発音)という名詞が最初に登場するのは、民数記に登場するモアブ人の指導者バラクと魔術師バラムの物語です。そこで私たちは、バラクとの会談に向けて出発したバラムが、剣を抜いて「立っていた」天使に途中で捕らえられたと伝えられています。。。彼にとって悪魔となる道を歩むのです。」ヘブライ語は、より一般的な動詞Satamの変形である動詞の語根に由来しています。憎む、または敵対するという意味で、この場合は「障害」と訳されることも考えられますが、より正確には「敵」または「敵対者」となります。(後者の言葉は、欽定訳聖書や他のほとんどの英語聖書翻訳で使用されています。)しかし、ソロモンが聖書の本の中で宣言したときのように、聖書の初期の本には「障害物」という方が確かにより良い選択である可能性がある箇所が他にもあります。王たちは、神殿を建てるのにサタン(障害となること・もの)はいないと言いました。

しかし、聖書の後期の 2 冊では、サタンが「ハ・サタン」という定冠詞を前に付けて登場しますが、この場合は明らかに特定の人物を指しているため、我々はより難しい立場にいます。その一つがゼカリヤ書で、その中で預言者は神殿の大祭司が「神の天使の前に立っている」という幻を見ます。そしてサタンは彼の右側に立って彼に敵対していた[ l'sitno ]。」2番目の、よりよく知られている箇所は、ヨブ記の導入シーンで、次のように語られています。

 

「さて、神の子たち[つまり天使たち]が主の前に姿を現すためにやって来た日が来ました、そしてサタンも彼らの中にいました。すると主はサタンに言われた、「どこから来たのか」。するとサタンは主に答えて言った、「地を歩き回り、その中を歩き回っているのです。」

 

どちらの場所でも、欽定訳聖書はハ・サタンを「敵」ではなく「サタン」と訳し、それを固有名詞として扱っています。したがって、悪魔がヘブライ語聖書に登場するという考えが生まれました。

「サタン」という言葉は、元来、「敵対するもの」を示す一般名詞であって、多くの人が想っているような、霊的な存在を示す固有名詞では無いのだ、と説明されています。

ヨブに遣わされた悪魔についてはどうでしょうか。次のように説明されています。

悪魔の存在がキリスト教の統一的な見解であるのと同じように、ユダヤ人の統一的な見解ではありませんでした。実際、9世紀の偉大なラビ学者であり神学者でもあるサーディア・ガオンに劣らない権威が、そのような存在を完全に否定しました。ヨブ記に登場するサタンは決して超自然的な存在ではないと彼は考えた。11 世紀のバハヤ・イブン・パクダの言葉に次のようなものがあります。

ガオンのラビ・サーディアは、サタンはヨブの成功とその善行の大きさに対する憎悪と嫉妬からヨブを不当に告発した普通の人間であり、「神の子たち」もまたヨブと同じような人間である、と説明した。彼らはヨブの敵でした。一年の特定の日に集まり、[神の子として]神を礼拝し、盛大な宴会を開くのが彼らの習慣でした。。。彼らの中で最も著名な人物もそこにやって来ました。サタンと呼ばれたのは、ヨブを最も妬み、ヨブを最も告発した者だったからです。

「サタン」とは普通の人間のことだ、とはっきり言っていますね。しかし、実際そうだろうと思います。そうであれば、聖書の価値は数倍高くなるようにも思います。

過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも申し上げたことですが、この悪魔に関する問題も、七十人訳聖書に起因する誤解、誤謬のひとつであると言えそうですよね。イスラームコーランの翻訳を禁じることの意味がよくわかります。

原理主義的なクリスチャンの人たちは、この世は神と悪魔の戦場であると考えて、しかも神の劣勢を憂えておられるようですが、悪魔って空想の産物みたいですよ(笑)。