キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

聖伝ミサの実践者はライ病患者?

f:id:christian-unabridged-dict:20190112144301j:plain

sthughofcluny.org

 

何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?

blog.goo.ne.jp

というブログ記事を見つけました。カトリック教会の典礼様式は、第二バチカン公会議(1962年~1965年)によって現代的に改革されたのですが、それ以前の古典的な様式のミサである「聖伝ミサ」を懐かしむところの記事であるようです。

引用してみましょう。

1969年、教皇パウロ六世は聖伝のミサの新しい司式のやり方を導入しました。この新しい典礼様式は、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものでした。

何を何から断絶させるのかがわからないですよね。イエス様は、ミサの様式を聖書で規定しているのでしょうか。

第二バチカン公会議パウロ六世の新しいミサとは、実際上「教会の春」などではありませんでした。たとえ一部の教会高位聖職者がそう言い張ったところで、事実は別のことを指し示しています。何故なら、たとえばフランスでは今後2015年までにほとんどの小教区では司祭が不在になるからです。スイスでは、司祭の不在現象は突如として加速的に増え、平信徒によって運営される平信徒の教会が2018年に到来することになると予想されています。

しかし、カトリック教会の魅力は、まじないのような聞きなれない言語、きらびやかな祭服、大げさな動作、香の煙に満たされた薄暗い堂内、陰鬱なオルガンの音、抑制された発声で歌われる宗教歌、こういった情緒的で一次的な状況にこそあるのであって、これらを実務的で無感情なものに改変してしまうことは、元来の魅力を削ぐことになってしまうのでしょう。

古風な迷信に振り回されることが真価であって、信者はそのような状況を望んでいるのだということです。イエス様の教えなどはどうでもいい、ミサという豪華絢爛なショーを開催し、演者と見物人を満足させて興行収入を得よう、というようなところが実際のカトリック教会なのです。

教皇ベネディクト十六世の、枢機卿時代の次の発言をご覧ください。

ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト十六世)は、その著書の中でこう言ったことがあります。
典礼の領域における意識の形成のために、1970年まで実施されていた典礼形式を追放していることを中止することが重要である。現在、この典礼が有効であると介入する者、或いはこの典礼を実践している者は、あたかもライ病患者であるかのように取り扱われている。

さすがは前時代的な儀式を好むだけのことはあって、ハンセン病患者を差別する有様も大時代のママだということのようです(笑)。

何を信じれば良いのか

f:id:christian-unabridged-dict:20190111131327j:plain

fineartamerica.com

 

キリスト教徒は、「イエス様を信じている」と言いますが、一体何を信じている、と言えるのでしょうか。福音書を読んでみましょう。

ヨハネ伝 6:47-51

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

一から十まで、過剰なまでに説明をおこなう、説明書的文章に馴れてしまっている現代人は、福音書のような、様々な要素を略して読み手に委ねる文章を読み解くのは得意ではありません。それで、「神学」とか「聖書学」とかいう奇妙奇天烈な学問分野が興って、なんとか聖書にある文字の間とか行の間を埋めようとするわけですが、結局、自分たちの飯の種である、キリスト教という看板が降ろされてしまわないように、という思いを恣に結論を出しているに過ぎない、というところが実情です。

エス様当時、宗教には二種類の様態があった、と整理することができるでしょう。一つは仏教、儒教ゾロアスター教、といった東洋的な精神世界であり、一つは、ローマ・ギリシャ神話、メソポタミアウガリット、シリア、パレスチナ地方などに見られた、生活の利益を願うための自然崇拝です。

キリスト教は、ユダヤ教という、二種類のうちの後者から、東洋的な展開を遂げて二種類のうちの前者への進化を遂げようとしたものの、三柱神 など、慣れ親しんだ土着の習慣を捨てきることができず、中途半端な状態でバランスが取れて、固定化されてしまった状態、と言えるでしょう。

例えば、上に挙げた箇所などから見て、イエス様が、何を信じなさい、と言っているのかと言うと、「私の説明するロジックが正しいと信じなさい」と読むのが正解なのですが、「私を信じなさい」と言っている、と読もうとするので、イエス様は神様だ、というように話が歪んでしまうわけです。

エス様の説明とは、つまり、「持ち物を捨てなさい」ということで、持ち物とは、物欲、名誉欲などのことです。人生において余計な重荷とは、「欲」のことに他ならない、ということ、福音書を通して説かれている、その説明を噛みしめるように理解して、自分自身の考察で色付けしなさい、という意味で、私はパンだと表現したわけです。聖餐式でパンを食べたところで、何一つ「忠実な記憶」にはならないのです。おわかりいただけるでしょうか。

神は実在する、と理解することにも大反対はしませんが、神が、完璧な存在だと理解するのであれば、例えば、善意で神社へ参拝するものを、その理由だけで断罪するはずが無い、と思いたいところです。また、人が、苦悩や煩悶を経て、右往左往しながらようやくの思いで生きていることもご存知のはずです。神が親のようなもの、と考えるとき、失敗したものを切り捨てて死後地獄に堕とす、ということはあり得ないのではないでしょうか。

人間が一生懸命に考えて、善いものを抽象化した結果がいろいろな神様なのだけれども、所詮は人間の考え出したもの、いくつかのポンコツは隠しきれないようです。でも、一番自分に合った神様を選びなおすことはできます。あるいは、自分は神様無しで行こう、という考えも良いと思います。

少なくとも、「信仰」が「心や体の負担」になっているのであれば、それは、あなたの神では無いものを拝んでしまっているからです。

神が全知全能であるのならば、人の苦悩を見逃すはずが無い、と信じたいところです。

 

ぶどう園の例え話

f:id:christian-unabridged-dict:20190108142142j:plain

www.integrity-authenticity-love.com

 

マタイ伝福音書に、「ぶどう園のたとえ話」という箇所があります。ぶどう園の労働者が、労働時間の長短に関わらず、一様の賃金しか貰えなかった、というお話です。

雇用主の言い分を見てみましょう。

マタイ伝 20:9-16

そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

福音書で、イエス様は無神論を主張 しています。僕はそのことをこのブログを通して説明していますが、マタイ伝のこの箇所ほど、そのことがはっきり分かる箇所は他にはありません。

まず、天の国とは、「ぶどう園で働く」ことであるような、日常に存在するのだよ、と説明していることを指摘できるでしょう。天の国は空の上にあるのではなく、死後に現れる夢の世界でもない。今生きている現実の世界のことを言うのだよ、と説明しているわけです。

この箇所で、「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という表現が、話を難解にさせている要因になっているように思いますが、これは、志を起こしてイエス様の教えに従って行こう、と決心した順番ではなくて、

マタイ伝 19:29

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。

にあるとおりにしたもの、持ち物、つまり、欲望を捨て去ったものの順番になるのだよ、と説明しているのです。

その結果何が得られるのか、それが、神と全く同じ価値観であり、これこそがキリスト教徒の求めているもの、一人ひとりにとっては「神成」で、そのような人々による社会を「神の国」と呼ぶわけです。

「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」の箇所と、「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。」を分割して解釈しようとするから難解になってしまうのであって、要するに、「捨てれば分かるよ」と言っているだけなのだ、ということなのです。

エッサイの株

f:id:christian-unabridged-dict:20190105095007j:plain

ja.wahooart.com

 

キリスト教のこよみは、待降節アドベント)から始まります。こよみ上の新年最初の祝日といえば、カトリックではテオトコスの祝日(1月1日)がありますが、プロテスタントでは降誕節の終わりである1月6日の公現祭までは何もありません。

ですので、1月1日は「新年礼拝」などと称して、日本人の新年行事欲を満たしているようです(笑)。

今年も我が家には、年末から親戚が集まって来まして、元旦には揃って教会へ新年礼拝に出かけました。僕は行かなかったのですが、礼拝から帰って来た従姉の長女(キリスト教系の女子大生)に、どんなお説教でしたか、と質問しましたところ、「イッサイの株のお話」と言いました。「それは『エッサイの株』やな」と突っ込んだのですが、バタバタしていましたので、その話はそれきりになってしまいました。

降誕祭後のお説教としてはふさわしい主題だったと思います。エッサイとは、ダビデ王の父である旧約聖書(サムエル記)の登場人物ですが、「エッサイの株」とは、「エッサイの木」、「エッサイの根」、などとも言われ、エッサイの末子がダビデ王であり、ダビデから出た子孫がイスラエルの主要な血脈をなしたのだ、ということを表す言葉です。イザヤ書を引用してみましょう。

イザヤ書 11:1-4

エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
彼は主を恐れることを楽しみとし、
その目の見るところによって、さばきをなさず、
その耳の聞くところによって、定めをなさず、
正義をもって貧しい者をさばき、
公平をもって国のうちの
柔和な者のために定めをなし、
その口のむちをもって国を撃ち、
そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 

キリスト教ではさらに、イエス様の系図も、その延長上にあることを強調しています。マタイ伝福音書の冒頭には、イエス様がエッサイとダビデの末であると記されています。

マタイ伝 1:1-6

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリスト系図
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。 

 イザヤ書 11:10

その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。

この、「もろもろの民の旗」とは、イエス様のことだ、という解釈ですね。要するに、旧約聖書は、各所でイエス様の出現を予言しているよ、ということを言いたいわけで、この箇所もそう読めば読めないこともないだろう、ということです。

初詣は悪魔崇拝、などと、信徒の精神を破壊するような駄説教を撒き散らすバカ牧師に比べれば、キリスト教徒のキリスト教系女子大の学生に「イッサイの株」と記憶せしめる説教を行う牧師は、相当立派な牧師だと言えると思います(笑)。

神のイメージ

f:id:christian-unabridged-dict:20190101135408j:plain

エチオピアキリスト教徒がイメージするイエスと弟子たち

www.worthpoint.com

 

高校生の頃、カトリック信者の同級生から聞いた話なのですが、マスターベーションについて告解を行った際についての話でした。今となっては微笑ましい悩みなのですが、高校生の少年というのは、色々なことに付いて思い悩むものですよね。

まずは、鴨川右岸にある、旧資産家の屋敷跡を転用した修道院を訪ねて告解をした、ということで、そのときには、「神の恩寵を汚す、重大な犯罪であり、改めない限り、地獄で永遠の罰に苦しむことになるよ」と指導された、ということでした。

次に、大阪のあるカトリック学校のチャペルで行ったときには、「そんなバカバカしいことを一々告解するな」と笑われたのだそうです。

同じような告解に対して、二人の神父が全く違う見解を示したわけですが、どちらの神父の理解している神が本当の神なのでしょうか。

 

話は変わりますが、最近耳にしないものの、プロテスタント信者のお年寄りはイエス様を「エッ様」と呼んでいたものです。今でもそんな人がいるでしょうか。

正教会では、イエスを「イイスス」、キリストを「ハリストス」と呼びますが、決して「イイスス様」とか「ハリストス様」などとは呼びません。もしそんなことを口走ったりしたらドン引きされて、以降は態度が変わるんじゃないかと思いますよ(笑)。

同じ教会の、同じ礼拝で隣に座って説教を聞いている知人であっても、その人の頭にある神のイメージと、自分の中にある神のイメージが、全く同じとは考えにくいですよね。

いかがでしょうか、神のイメージというものは、教派によって随分違うのです。また、同じ教派内であっても、まるで別の神かと思うぐらい違うのが実際です。

過去の記事
christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも取り上げましたが、イエス様とほぼ同年代の人、クレオパトラのイメージは、人によって、それほど違うものではありません。それが間違っていたとしても、それほどの食い違いは無いでしょう。クレオパトラは実在した人だからです。

エス様のイメージがあやふやなのは、やはり実在しなかったからなのでしょうね。

邸と王と煩悩

f:id:christian-unabridged-dict:20181231194556j:plain

davidvanatter.com

 

ルカ伝福音書に、「邸と王の喩え話」というくだりがあります。見てみましょう。

ルカ伝14:28-33

あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

ここでも、イエス様は、全ての財産を捨てなさい、と言っていますね。福音書が伝えるイエス様の教えは、洗礼や、聖餐、復活、死後の福楽、などといった情緒的なことではなくて、この箇所にもあるように、自分の財産をことごとく捨てきりなさい、ということだけなのです。

今持っている財産はもちろんのこと、名誉も、学歴も、立派な家も、良い食事も、一切何も欲しがることは無いのだよ、ということ、ただそれだけです。

そればかりか、イエス様は、安易に「従います」と言う前に、本当にそれができるかどうか、よく考えてみなさい、と言っています。できないことを「します」と言うのは愚かなことだと批判しているのです。

そして、たとえば、劣勢の手駒しか持ち合わせないところへ、優勢の敵が現れたとき、意地を張って攻め込んで、自軍を壊滅させてしまうことと、すべてを捨てて和平を結ぶことと、どちらを選ぶのか、イエス様は後者を選ぶしかないのだよ、と教えます。

みすみす殺されるとわかっていても、「自分の持ち物」を捨て去ることを惜しみ、万が一の奇跡を頼って突っ込んで、結局滅ぼされたとしても、だれにも褒められないで、嘲笑されるしかないだろう、ということです。

結局、欲(煩悩)なんて人生の邪魔物でしか無い。でも、そのことすら理解できない者は、最初から関心を持つな。

これが福音書が示すイエス様の基本的な教えです。

自殺をした青年を「罪人」と呼ぶカトリック神父

f:id:christian-unabridged-dict:20181225093347p:plain

www.buzzfeed.com


「自殺をした青年を「罪人」と呼び、「天国へ召されることはない」と神父が発言」という記事がありました。引用してみましょう。

12月4日にミシガン州で自ら命を絶ったメイソン・ハリーバーガーさんの葬儀が8日にあった。その際、神父は彼の死を責め、自殺をした者は天国へ召されることはないなとど発言した。

メイソンさんの葬儀はミシガン州テンペランスのマウントカーメルカトリック聖母教会で行われた。今回の問題発言をしたのは、その教会で神父を務めるドン・ラ・クエスタさんだ。

「祭壇の上で、彼は私たちの息子を罪人と呼び、非難しました。彼が天国へ行くために悔い改めているのか疑問であると」とメイソンさんの父親、ジェフ・ハリーバーガーさんはデトロイト・フリープレスのインタビューに答えている。

あまりに酷い対応に我慢できなくなったジェフさんは司祭に止めるよう求めたが、メイソンさんの死を責める言動を止めることはなかったという。

「彼は私たちの息子の冥福を祈ることなく、罪人と呼び続けました」と母親のリンダ・ハリーバーガーさんも明かしている。

「私たちは神父に亡くなってしまった息子がどのように生きてきたのかを見て、祝福して欲しかった」と彼女は語る。「でも、葬儀は神父が自殺を受け入れることのできない理由を延々と語る場になってしまいました。彼の言動は未だに受け入れることができません」

神父の言動にメイソンさんの友人も困惑した。

「メイソンと同い年くらいの2人組の男の子たちも参列していましたが、嗚咽を漏らしながら退席してしまいました」

カトリック教会は自殺を受け入れるか否かに対して複雑な歴史を持っている。1983年、教皇による呼びかけが元となり自殺を選んだ人の死も埋葬することを許された。

3日、デトロイト大司教区はこれらの報道を受けて声明を発表した。その声明によると今回の問題発言をした神父は今後一切、葬儀に関わることはない。

「ただでさえ辛い状況で、神父の心ない発言でさらなる困難と向き合わなくてはならなかったことを心からお詫びします」

「我々の中でも議論を重ね、葬儀をとり行った家族への対応は不適切なものだと考えました。今後、問題となった神父が葬儀に関わることはありません。彼に対しては他の神父からフィードバックを行う予定です」

 

自殺は十戒に反する大罪であって、そのことによる死者は、決して神の許しに与ることはない。だから、教会が彼を祝福することは無い、という建て前は理解できますが、この神父のように、硬直した態度で接するのもどうかとは思わされます。

しかし、自殺は殺人であって、十戒に反する大罪であり、自殺を謀って死亡したものは罪人である、という教会の理解に変わりは無いはずです。1983年までは教会墓地に埋葬できなかった、というのですから、葬儀も行われなかったのでしょう。それ以前からの神父であれば、それまでの習慣や考え方に影響されていて、つい否定的な考えが口から出てしまう、ということがありがちなのかもしれません。

しかし、何度も言いますが、教会は、自殺は殺人であって大罪、と定義しているのであって、信者はそのことを理解しているはずです。そうであれば、悔い改めて神と和解する機会を自ずから捨て去ってしまったもののために教会がどう仲介しようとしても、それは無駄な努力ですし、教会の行いとして、それは反教育的で冒涜的な、もっといえば 悪魔的、退廃的な行為である、ということも理解できるはずです。

神父としては、自殺は犯罪であって、しかも、神と和解する機会を永遠に失ってしまう、取り返しのつかない恐ろしい行いである、ということを信者に教える義務がある、ということになるでしょう。

つまり、この神父は何も間違ってはいないのです。にもかかわらず、「神父の心ない発言で」と言って責められているわけで、とても気の毒な気持ちになってしまいます。

「彼は私たちの息子の冥福を祈ることなく、罪人と呼び続けました」と母親のリンダ・ハリーバーガーさんも明かしている。

と言いますが、自殺者に冥福は無いはずです。それは、ずっと以前から教会が示している考えであって、あなたがたは、それを理解して同意していたはずですよね、ということにならないでしょうか。僕が親なら、そんな反教会的不良分子を育ててしまった親である自分を恥ずかしく思い、教会に葬儀を依頼できなかっただろうと思いますよ。

また、

「私たちは神父に亡くなってしまった息子がどのように生きてきたのかを見て、祝福して欲しかった」 

と言いますが、犯罪者がその犯罪より前に、どのような善行を行っていたとしても、その犯罪が軽減される要因としては評価されないでしょう。この親は、うちの息子には教義を正しく適用するな、と言っているわけです。

いかがでしょうか、キリスト教という文化は、正義よりも世論や雰囲気を優先し、都合によっては、罪人を責め立てますが、別の都合によっては罪人を擁護するわけです。

神が実在するのであれば、そんな様子を見下ろして嘲笑していることでしょう。