キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

光明真言と五智如来

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如来寺五智如来

www.yougyokuin.com

 

過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

に、SNSを通じてご意見を頂戴いたしました。ブログ記事でご回答させてください、とお願いしましたところ、意見の内容をそのまま引用しないのであれば、との条件つきでご了承いただきましたので、こちらで回答させていただきます。

ご意見の内容を要約させていただきますと、

仏教に如来というものは、実際には存在せず、本来あるべき人間の理想的姿を象徴的に表したものだ、という記述があったが、そんなことはない。如来は現実に実在するものであって、たとえば「光明真言」というマントラ真言)があるが、これは「五智如来」に順番に呼びかけて利益を願うマントラであって、非常に強力な効能がある。日本でも平安時代以来1000年以上行われ続けて来ている、ありがたいマントラである。如来が実在する明らかな証拠だ。

ということでよろしいかと思います。

 

私の実家は、明治以降キリスト教に改宗しているのですが、それ以前の先祖は仏教徒だったわけで、位牌や過去帳がありますし、そういうものを捨ててしまうわけにも行きませんので、仏壇や神棚はそのままにしてあります。菩提寺の宗旨は天台真盛宗という天台系の一派でして、これは偶然同じだったのですが、母の実家も同じ宗旨でした。

母は結婚後キリスト教に改宗しましたが、母方の祖母には、比叡山や坂本の菩提寺などによく連れて行ってもらいました。天台宗は、天台真盛宗も同じですが、密教でもありますので、光明真言にも馴染みは深いです。下記のWikiからの引用での唱え方は真言宗の唱え方ですが、天台系では、光明真言

オン アボキヤ ビロシャナ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン 

 と唱えます。両者で少し違うようです。

 

さて、問題の「光明真言」ですが、どのようなものなのか、Wikiを見てみましょう。

光明真言(こうみょうしんごん)は、正式名称は不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という密教真言である。密教経典である「不空羂索神変真言経(菩提流志訳)」や「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言(不空訳)」に説かれる。

 とあります。発音と意味、として、

oṃ amogha vairocana
オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩

 

mahā-mudra maṇi padma
偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽

 

jvāla pravartaya hūṃ
光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

とあり、また、

なお、amogha(アボキャ)は不空成就如来を、vairocana(ベイロシャノウ)は大日如来を、mahā-mudra(マカボダラ)は阿閦如来を、maṇi(マニ)は宝生如来を、padma(ハンドマ)は阿弥陀如来を指すと解釈され、金剛界五仏五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言である。

ともあります。これに従って、上記の「意味」を書き換えるのであれば、

オーン 不空成就如来よ 毘盧遮那仏大日如来)よ 阿閦如来よ 宝生如来よ 阿弥陀如来よ 光明を 放ち給え フーン (聖音) 

 となり、不空成就如来はお釈迦様のことですので、

オーン 釈迦如来よ 毘盧遮那仏大日如来)よ 阿閦如来よ 宝生如来よ 阿弥陀如来よ 光明を 放ち給え フーン (聖音) 

という意味である、ということになるでしょう。

ここで、各Wikiから、如来が何を示しているのかを整理してみましょう。

これによって、改めて意味を表すのであれば、

仏法の根本を正しく知り、この世の法則と真理を学び、揺るぎなく、妬まず、怒らず、見下げず、比べず、そのようにして生きることの尊さを追求する自分であるように、その道を示してください。 

という意味が込められている文章なのだ、とまとめることができるでしょう。

そして、この光明真言を唱えるところの意味ですが、

五智如来という五人の如来が、どこかに実在していて、光明真言を唱える人を認識して、超自然の力を持ってその人に介在し、特別にそのひとに利益を与える。

という理解と

五智如来によって象徴された、五種の徳を大切にする生き様を忘れないように、常に唱える。 

という理解があるのではないでしょうか。人によっては、上の理解方法で留まる場合があるでしょうし、もっと理解できる人には、下の段階へ進むべき場合もある、ということです。

実際には、如来や菩薩は実在するものではなくて、色々な事柄を擬人化して象徴するものであるわけです。実在する超人的な、いわば神のような存在なのだという理解はするな、と禁止はされていないかもしれませんが、それは、仏教が迷信化した状態だと言わねばならないでしょう。

皮肉な言い方をすれば、五智如来が実在して、超能力で、光明真言を唱える人を幸せにする、というレベルに留まっている人は、阿閦如来の無瞋恚、無怒に倣うことができず、気に入らないブログ記事を見つけたら、よく考えもせず、ついクレームを入れていまうのだ、ということになるのでしょう(笑)。

ちなみに、キリスト教の聖書理解は、公式には低い方のレベルしかありません。キリスト教を仏教と比べるな、と言う人がいますが、正確には、比べることができないほどレベルが低い、というべきでしょうね。

神や、天国、地獄の実在を公式に説くキリスト教は、迷信化したレベルの仏教理解と比べれば、なんとか釣り合うのではないでしょうか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

空の鳥と野の花

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www.keiwa-c.ac.jp

 

過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも引用したのですが、もう一度、空の鳥と野の花の説教を見てみましょう。

マタイ伝 6:26-29

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

この箇所は、上で引用した敬和学園の学長のような、鳥や花でさえも生きているのだから、人間であれば、当然、神がより保護してくれるのだから心配するな、と言っているのだ、と解釈するのがほとんどのように思うのですが、残念ながら違います。そのような解釈では、人間も、鳥や花のように働かなくても、別にかまわないんだよ、と言っていることになってしまって、支離滅裂となってしまいますよね。

そうではなくて、名誉や富貴、飽食、淫蕩を求めなくとも、人は生きて行けるのだよ、ということを言っているのです。鳥や花はどうか、見てみなさい、というわけです。何も求めなくても花は自ずから美しいし、鳥も飢えることはないではないか、美しさや満足とは、知識や財産の多寡ではなく、人間の内面の問題を言っているのだ、と教えているのです。

福音書を通して、イエス様は、何度も「持ち物を捨てなさい」と諭しています。この箇所も、空の鳥や野の花を見て安心しろ、と言っているのではなく、かれらのように、持ち物を捨てなければ成長できないよ、と言っているのです。

福音書には、仏法のエッセンスが込められている、ということがおわかりでしょう。煩悩を滅却すれば、真如が見える。宗教の教えとは、根底で一つに繋がっている、ということです。死後天国か地獄か、なんていうことは、物事の本筋では無くて枝葉であり、生きていない話の進め方に過ぎないのです。

そうではなくて、どう生きるか、どのような社会を目指すのか、ということだと思います。

ユダヤ・キリスト教の神

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www.history.com

 

宗教の発生には二種類の要因があると思います。たとえば日本の神道ですが、元々は自然崇拝であって、アマテラスの実体は太陽であろう、ということを、無理も苦労もなく想像することができます。

農耕という生活の手段において、人間がどうしようもないこと、といえば自然の猛威です。嵐、水難、地震、山火事、日照り、寒い夏、温かい冬など、どのように努力してもそれを避けることができないとき、それを神とみなして、なんとか鎮まってくださるように、と願うわけです。日本語の「祈る」とは元来「慰、宣る」であって、荒ぶる神の霊に語りかけて、なんとか安らげていただこう、と努力することであったのです。

一方、ユダヤキリスト教の神、おそらくはイスラームも同様だと思いますが、自然現象を神格化したものではなくて、国家を神格化したものです。

ユダヤ教の神はイスラエルという国家であり、キリスト教の神はローマ帝国という国家そのものであったということです。

キリスト教は、旧ローマ帝国、新ローマ帝国の国教として発展し、ビザンチン消滅の後も、帝政ロシアの国教となりながら、政治の道具として花開いたわけです。

日本の正教会の祈祷書にも、「我が国の天皇、皇后、東宮東宮妃、諸宮家、および諸皇族のために」という連祷があります。テモテ書簡に拠る結果です。読んでみましょう。

テモテ書簡 2:1-3

そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。

しかし、日本の皇室は正教会に祈祷してもらうことを望んではいないのですから、結局はロシアの定文を機械的に日本語に翻訳して、それを愚直に唱えているだけだ、ということにしかならないでしょう。

 

キリスト教という宗教は、国家が国家運営のために応用するためのものであって、それ以外の用のためには有効性を発揮することが出来ないものなのです。

たとえば、カトリック教会は、「バチカン」という国を作り、「教皇」という皇帝を立てて擬似帝国の宗教、という体裁に落ち着いているようですが、それでは、国家が神である、という要件を満たしていません。

また、福音派の小集団達は、それぞれの牧師が国家元帥である国粋主義を打ち立てようとしているようですが、結局は低俗な思想団体ぐらいにしかなることができていません。

 

つまり、ユダヤ教はともかくとして、キリスト教という宗教は、現代において、その効力を発揮できる機会を失ってしまっているのだ、と言えるわけです。

「犠牲」の進化とキリスト教の矛盾

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www.afpbb.com

 

申命記の次の記述をお読み下さい。

12:29あなたの神、主が、あなたの行って追い払おうとする国々の民を、あなたの前から断ち滅ぼされ、あなたがついにその国々を獲て、その地に住むようになる時、 12:30あなたはみずから慎み、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らにならって、わなにかかってはならない。また彼らの神々を尋ね求めて、『これらの国々の民はどのようにその神々に仕えたのか、わたしもそのようにしよう』と言ってはならない。 12:31あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。

「神に犠牲を捧げる」という考えは、世界中どこにでもあるようです。日本の神社にも賽銭箱がありますが、賽銭も神に捧げる犠牲の一つであると言えるでしょう。日本でも有力者が死んだときには、人間を生きたまま副葬していた、ということがあったようですが、時代が下がると、土器で代用するようになります。「埴輪」ですね。

人間を、生きたまま神に捧げる、ということは、最も原初的な方法だったのでしょう。聖書では、しばしば言及されていて、その方法による犠牲の実施が禁じられています。他の箇所も確認してみましょう。

申命記 18:10

あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。 

列王紀下 16:3

彼はイスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした。

列王紀下 17:16-17

彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。

歴代志下 33:6

彼はまたベンヒンノムの谷でその子供を火に焼いて供え物とし、占いをし、魔法をつかい、まじないを行い、口寄せと、占い師を任用するなど、主の前に多くの悪を行って、その怒りをひき起した。

 他にもまだあります。

 

しかし、そんなことを繰り返していては人口が減少してしまいますし、そうそう簡単に生命を扱っていたのでは、倫理観も低下して、社会性が向上しません。

そこで、もうそういう犠牲の方法は止めにしなさい、犠牲を捧げるのであれば、動物をもって人に代わるものとし、以降は人間を殺して捧げてはならない、と律法で定めたわけです。

おわかりでしょうか。それなのに、神自身が望んで、真の人間でもあるイエス様の生命を犠牲として受け入れるはずが無いのです。三位一体であるというのであれば、

「あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。」

という、戒めに、自ら進んで反してしまうことになってしまうわけですからね。

ちゃんと聖書を読んでいればすぐにわかるはずだと思いますよ(笑)。

偶像崇拝が禁じられた理由

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www.senjyuin.or.jp

 

キリスト教偶像崇拝を禁じている、という理解が一般的でしょう。「モーセの十戒」を確認してみましょう。

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

確かにありますね 。第2に「偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)」とあります。しかし、第1を見ると「主が唯一の神であること」とあります。ということは、主が唯一の神であると理解しながらも、偶像を作ったり、偶像を崇拝したりしてしまう場合が、実際にあったのだろう、ということが想像できます。

どういうことなのでしょうか、あまり長々と説明しても意味がありませんので、結論だけ申し上げますが、聖書の言う「偶像」とは、「異教」、つまり、政敵である近隣諸国のことを示しているのです。

聖書には、イスラエル偶像崇拝を禁じられた原因が示されています。少し長いですが引用してみましょう。

列王記 11:1-13

ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。主はかつてこれらの国民について、イスラエルの人々に言われた、「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない。彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」。しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった。彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。 これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。
このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」。

周辺の諸国と戦争をし続けるよりは、同盟を結び、文化も人も交流すればいい。国を開いて国交を固めよう。そう考え、主要な貿易相手国の子女を娶って、国交を盛んに行った結果、ソロモンの子の代には、イスラエルが弱体化してしまい、南北に分裂してしまう原因となって行きます。

このことを、「偶像崇拝」と言って抽象的に戒め、近隣の異教徒は偶像を崇拝しているような次元の低い奴原ばかりだ、と蔑んでいんるわけです。

世界史を見れば解りますが、そう言って蔑まれた異教徒のほうが実力としては上で、後に、結局イスラエルという国家は消滅させられてしまいます。

これは、ソロモンの時代のイスラエルに特有な事情であり、現代の日本には当てはまらない事柄である、ということになってしまうでしょう。だから、カトリックや正教が画像や塑像を聖堂に安置して尊崇することは偶像崇拝だ、などと的外れな批判を展開するようなことが起きるわけです。

「現代で言えば」などと言って、何でも無理やり当てはめる必要はありませんよ、ということです。仏教徒、というか、日本人の葬儀に出席すると、偶像崇拝したとみなされて、神に罰せられる、と思い込んでいる、あるいはそいう思い込ませようとしている教派があるようですが、仏像は偶像ではありませんし、葬儀に参列する人は、故人を礼拝するために集まっているわけでもありません。そんなことぐらい、説明しなくてもわかりますよね。

プロテスタントは、カトリックを「行為義認」と言って嘲笑していますが、それでは「行為不義認」でしょう。そんな考えの中には、神が不在だと嗤われてしまいます。

実際、神自身が、イスラエルの神を礼拝するためであるならば、造形物を作成するように命令しています。引用しましょう。

出エジプト記 25:17-22

また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。

旧約聖書では、天使は神の象徴であって、神自身が天使の姿で人に現れる、という箇所がいくつかあります。つまり、ケルブは神を表現しているのであって、この箇所を読めば、神は神の造形化を一切禁じているわけでは無い、ということが理解できるでしょう。宗教は全て「偶像を崇拝する文化」なのです。

聖書は、ある一節だけを抜き出しても、その直接の言葉の意味だけから本意を導き出すことはできません。「偶像崇拝の禁止」とは、「偶像を崇拝すること」を禁じているわけではないのです。

「求めよ」とは

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ティベリア 西修二郎

 

エス様は、山上の説教において、次のように言われました。

マタイ福音書 7:7-8

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

この箇所を読んだクリスチャンは、たいていの場合、ほしいものがあるときは、ほしい、ほしい、と念じよ、物を失くしたときはよく探せ、試験を受けるときには、しっかり試験勉強をせよ、そうすれば神が助けてくださるのだ、という教えだな。

という程度の理解しかしないでしょう。しかし、おそらく既にお察しのとおり、そういうことを言っているのではありません。この説教の意味するところは、

「何を求めればいいのか、を考えながら生きていく自分自身でありなさい」

ということです。主体は神ではなくて、あなたがた一人ひとりの内面にあるのだよ、と言っているわけです。

一から十まで丁寧に説明しないのが聖書の特徴ですが、とても重要な事柄が述べられている箇所ですので、引き続いて説明が述べられています。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

親は子どもには良いものを与えるもの。たとえ悪人であっても子どもに悪いものは与えないだろう、それが人間の自然な行いだ。しかし、自分自身のためには、良いものを選ぶことをしなくなってしまいがちだから注意しなくてはならないよ、というわけです。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

しかし、ただ待っていてはだめだよ、肝心なことは、あなたがたが、自分自身で考えて、良い社会を実現するためには何を求めればいいのか、を考えながら生きていく自分自身であることを望んで、それを実行しなくてはならない。律法や預言者が言っていることは、つまりこのことなんだよ、と教えているわけです。

なんだ、そんなこと当たり前じゃん、そんな程度の解釈でいいなら教会なんて要らないし、別に聖書も読む必要ないよね、と思われたでしょうか、実はそのとおりなんですよ(笑)。

エホ証の正しい理屈

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postbarthian.com

子供の頃を思い起こしますと、河原町通りや四条通り、新京極などでも、カトリックの修道女をよく見かけたものですが、最近はあまり見かけませんね。それと、黒い法被を着た天理教の人立ちが、拍子木を鳴らして歌を歌いながら、行列を組んで練り歩くのも見なくなりました。

エホバの証人が、子連れで訪問してくることもすっかり無くなってしまいましたね。家にいる時間帯が変わったので気づかないだけなのかも知れませんけど(笑)。

エホバの証人と言えば、三位一体を認めません。イエス様は神(の一部)であるという、大多数のキリスト教とは異なり、人間である、という理解ですね。

細かい話をしだすとキリがありませんが、端的に言って、この理解は正しいと思います。簡単に言えば、福音書でイエス様が、その説明を行っているかいないかということです。大多数の教会が盲従しているから、ではなくて、自分自身で福音書を読んで導き出した理解によって、イエス様は神(の一部)では無い、と考えることは、正しいことでしょう。

キリストを神では無い、と言っているのに、エホバの証人は、自分たちのことを「クリスチャン」と言っていて矛盾している、と言う人がいますが、本来、「キリスト」は「神」という意味ではありません。また「救い主」という意味でもなくて、「膏(あぶら)を注がれた(塗られた)者」という意味なのです。ナザレのイエスを特定したとしても、神であるかないかはその意味に含まれてはいないのですから、エホバの証人が、自分たちのことを「クリスチャン」と言うことは間違いでは無いわけです。

 

では、その言っていることの全てが正しいのか、どうでしょうか。

例えば、食血の禁止があります。血を食してはならないというレビ記の記述から、血を食すこと、輸血を行うことなどを拒否していることはよく知られたことです。

しかし、それならば、同じように禁止されている、ブタ、カニ、エビ、貝類、イカ、タコ、なども食べないのでしょうか。

また、肉と乳製品の組み合わせも禁止されているのですから、ハンバーグ、シチューもダメでしょうし、肉食後にフロマージュを食べることも避けなくてはなりません。

つまり、ユダヤ教の食物規定である「カシュルート」をきっちり守っている、というのであればわかりますが、実際のところ、輸血を拒否して、反社会的な立場を主張しているだけのように見えます。

また、平和的で無いからという理由で、学校での武道の授業をボイコットするように、子どもに強要することもよく知られていますが、実際には、子どもを躾けると称して、ムチで打つ、というのですから驚きです。例えば、次のサイトを見て下さい。

gendai.ismedia.jp

 

ここで多くを語ってもせん無いことですので、専門家に任せたいと思いますが、疑問に思うことは自分自身でよく考えて、よくない、と思ったならば、そこから離れる努力をして下さい。

また、教義で神は三位一体と定義されているから大丈夫、ということでは無いと思います。エホバの証人などは極端な例ですが、それ以外の、いわゆる正統教義の教会であってもダメな教会はいくらでもあります。僕の観察では、キリスト教は全てアウトです(笑)。