キリスト教の問題点について考える

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自殺をした青年を「罪人」と呼ぶカトリック神父

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「自殺をした青年を「罪人」と呼び、「天国へ召されることはない」と神父が発言」という記事がありました。引用してみましょう。

12月4日にミシガン州で自ら命を絶ったメイソン・ハリーバーガーさんの葬儀が8日にあった。その際、神父は彼の死を責め、自殺をした者は天国へ召されることはないなとど発言した。

メイソンさんの葬儀はミシガン州テンペランスのマウントカーメルカトリック聖母教会で行われた。今回の問題発言をしたのは、その教会で神父を務めるドン・ラ・クエスタさんだ。

「祭壇の上で、彼は私たちの息子を罪人と呼び、非難しました。彼が天国へ行くために悔い改めているのか疑問であると」とメイソンさんの父親、ジェフ・ハリーバーガーさんはデトロイト・フリープレスのインタビューに答えている。

あまりに酷い対応に我慢できなくなったジェフさんは司祭に止めるよう求めたが、メイソンさんの死を責める言動を止めることはなかったという。

「彼は私たちの息子の冥福を祈ることなく、罪人と呼び続けました」と母親のリンダ・ハリーバーガーさんも明かしている。

「私たちは神父に亡くなってしまった息子がどのように生きてきたのかを見て、祝福して欲しかった」と彼女は語る。「でも、葬儀は神父が自殺を受け入れることのできない理由を延々と語る場になってしまいました。彼の言動は未だに受け入れることができません」

神父の言動にメイソンさんの友人も困惑した。

「メイソンと同い年くらいの2人組の男の子たちも参列していましたが、嗚咽を漏らしながら退席してしまいました」

カトリック教会は自殺を受け入れるか否かに対して複雑な歴史を持っている。1983年、教皇による呼びかけが元となり自殺を選んだ人の死も埋葬することを許された。

3日、デトロイト大司教区はこれらの報道を受けて声明を発表した。その声明によると今回の問題発言をした神父は今後一切、葬儀に関わることはない。

「ただでさえ辛い状況で、神父の心ない発言でさらなる困難と向き合わなくてはならなかったことを心からお詫びします」

「我々の中でも議論を重ね、葬儀をとり行った家族への対応は不適切なものだと考えました。今後、問題となった神父が葬儀に関わることはありません。彼に対しては他の神父からフィードバックを行う予定です」

 

自殺は十戒に反する大罪であって、そのことによる死者は、決して神の許しに与ることはない。だから、教会が彼を祝福することは無い、という建て前は理解できますが、この神父のように、硬直した態度で接するのもどうかとは思わされます。

しかし、自殺は殺人であって、十戒に反する大罪であり、自殺を謀って死亡したものは罪人である、という教会の理解に変わりは無いはずです。1983年までは教会墓地に埋葬できなかった、というのですから、葬儀も行われなかったのでしょう。それ以前からの神父であれば、それまでの習慣や考え方に影響されていて、つい否定的な考えが口から出てしまう、ということがありがちなのかもしれません。

しかし、何度も言いますが、教会は、自殺は殺人であって大罪、と定義しているのであって、信者はそのことを理解しているはずです。そうであれば、悔い改めて神と和解する機会を自ずから捨て去ってしまったもののために教会がどう仲介しようとしても、それは無駄な努力ですし、教会の行いとして、それは反教育的で冒涜的な、もっといえば 悪魔的、退廃的な行為である、ということも理解できるはずです。

神父としては、自殺は犯罪であって、しかも、神と和解する機会を永遠に失ってしまう、取り返しのつかない恐ろしい行いである、ということを信者に教える義務がある、ということになるでしょう。

つまり、この神父は何も間違ってはいないのです。にもかかわらず、「神父の心ない発言で」と言って責められているわけで、とても気の毒な気持ちになってしまいます。

「彼は私たちの息子の冥福を祈ることなく、罪人と呼び続けました」と母親のリンダ・ハリーバーガーさんも明かしている。

と言いますが、自殺者に冥福は無いはずです。それは、ずっと以前から教会が示している考えであって、あなたがたは、それを理解して同意していたはずですよね、ということにならないでしょうか。僕が親なら、そんな反教会的不良分子を育ててしまった親である自分を恥ずかしく思い、教会に葬儀を依頼できなかっただろうと思いますよ。

また、

「私たちは神父に亡くなってしまった息子がどのように生きてきたのかを見て、祝福して欲しかった」 

と言いますが、犯罪者がその犯罪より前に、どのような善行を行っていたとしても、その犯罪が軽減される要因としては評価されないでしょう。この親は、うちの息子には教義を正しく適用するな、と言っているわけです。

いかがでしょうか、キリスト教という文化は、正義よりも世論や雰囲気を優先し、都合によっては、罪人を責め立てますが、別の都合によっては罪人を擁護するわけです。

神が実在するのであれば、そんな様子を見下ろして嘲笑していることでしょう。