キリスト教大辞典

元クリスチャンによるキリスト教の批判的概解説

天国

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人は死ぬと、生前の行状の善悪によって、天国へ行くか地獄かへ行くかに別れる。大まかに言って、これがキリスト教の共通の理解でしょう。教派間の細かい違いを考慮すると煩雑になりますので、ここではカトリックを代表として説明してみましょう。

人が死ぬと、まず「私審判」というものがあって、直ちに天国か地獄、あるいは煉獄というところへ振り分けられます。Wikiの説明を見てみましょう。

 

私審判 - Wikipedia

私審判とは、正教会カトリック教会で、人が死後に直ちに受けるとされる審判のこと。イエス・キリストの再臨後に人が受ける公審判とは区別される。 

 

「人が死後に直ちに受けるとされる審判のこと。」と説明されています。しかし「イエス・キリストの再臨後に人が受ける公審判とは区別される。」ともありますね。では「公審判」を確かめて見ましょう。

 

公審判 - Wikipedia

世の終りにはイエス・キリストの約束と復活の保証により、すべての肉身が復活する。 肉身の復活とは天主の全能によって、世の終りに、霊魂が再び元の肉身に合せられることであり、その根拠となる聖書箇所は「墓の中なる人々悉く天主の声を聞く時来らんとす。斯くて善を為しし人は出でて生命に至らんが為に復活し、悪を行いし人は審判を受けんが為に復活せん」(ヨハネ 5:28-29)である。


これを見ると、私審判での判決は公審判で覆される場合があるかのように思えます。私審判で天国行き判決があっても、公審判では地獄行きになる、またはその逆の場合もあるかもしれません。何のために私審判と公審判を別に行うのでしょうか。

答えは「最後の審判」の頁の説明にあるようです。見てみましょう。

 

最後の審判 - Wikipedia

最後の審判」という概念はキリスト教イスラム教に特有のものではなく、それより先発のゾロアスター教に既に存在している。ゾロアスター教の世界観では、世界は善なる神アフラ・マズダと悪なる神アンラ・マンユとの闘争の場として考えられており、最終的に悪が滅びた後で世界も滅び、その後、最後の審判が行なわれると考えられている。
ゾロアスター教最後の審判は、地上に世界の誕生以来の死者が全員復活し、そこに天から彗星が降ってきて、世界中のすべての鉱物が熔解し、復活した死者たちを飲み込み、義者は全く熱さを感じないが、不義者は苦悶に泣き叫ぶことになる。
一説には、これが三日間続き、不義者の罪も浄化されて、全員が理想世界に生まれ変わるとされる。別の説では、この結果、悪人(不義者)は地獄で、善人(義人)は天国で永遠に過ごすことになるとされる。 

 

どこかで聞いたことの有るフレーズです。そうです「クレド」とそっくりです。

 

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。 

まるまるパクリですね。恥ずかしくなってしまうほどそっくりです。 

 

「天国」や「地獄」という概念は、純粋なユダヤ教には存在しませんでした。イスラエルの神は、人が生きている間のことだけを問題にする神だったのです。ですから、「私は『有る』である」、と言ったわけです。その意味は、周辺の偶像崇拝者たちのように、死後を云々するな、ということです。例えば、つぎのような箇所で死後を問題にする異教徒の習慣が批判されています。

列王記下16:3-4
彼はイスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした。 かつ彼は高き所、また丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。

たとえば、ローマ・ギリシャ神話においては、 エーリュシオン - Wikipedia という楽園が死後の世界として存在すると説明されていました。未だに死後の世界、特に地獄を「ハディス」と表現するキリスト教徒に会いますが、ハディスとは、このエーリュシオンに関係するギリシャ神話の神の名前です。

キリスト教ローマ帝国の国教にするにあたり、宗教としては主流派であったローマ・ギリシャ神話の信者たちは、このエーリュシオンに関する定義を手放してしまうことを良しとしなかったでしょうし、多数派であったゾロアスター教徒の終末思想を抹殺してしまうことも出来なかったのでしょう。無理やり両方取り込んでごちゃまぜにしてしまったのです。そんなわけで死後の定義が矛盾しているわけです。現行の「キリスト教」と呼ばれている宗教は、かんたんにいえば、ユダヤ教をキリスト伝説で脚色し、偶像崇拝を仕込んで迷信化したもの、ということになるでしょう。

そんななら別にキリスト教を国教にしなくても良かったじゃないか。そう思われたでしょうか。無理もありません。その通りです。

皇帝コンスタンティヌスキリスト教を公認したのは、彼の母ヘレナが元々狂信的なキリスト教徒だったからです。新興宗教カブレの母親からヒステリックに強要されて、頭を抱えて匙を投げたのでしょう。彼がもう少し強い男であれば、と悔やまれてなりません。