祈りとは何でしょうか。おそらくは神にお願いをすること、ということになるでしょう。世の中が平和であるように、今日一日が恵まれた日であるように、などと願う。これが祈りです。
では、何のためにそう願うのでしょうか。願えばその願いが叶えられるのでしょうか。キリスト教の教義的な答えはノーです。なぜなら、神の意思(予定)は人の願いより勝っていて、すでにすべて完了しているからです。人間は、神の業の成果の途中経過を観察させられているだけのことであって、いまさら何を願おうが、結果を覆すことはできない、ということなのです。
しかし、イエスは福音書で祈るならこう祈れ、と言って主の祈りを教えています。みてみましょう。
マタイ福音書6:5-13
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」と言っていますね。すでに予定は遂行されたのだから変更不可能だ、という意味です。
この祈りの意味を分かりやすい言葉に変えて書き直して見ましょう。
(天にいますわれらの父よ、)
世の中に真理というものがもしあるなら、見て聞きましょう。(御名があがめられますように。)
その真理から目をそむけない自分自身であるように、(御国がきますように。)
その真理へ立ち向かって進んでいく自分自身であるように、(みこころが天に行われるとおり、)
上辺だけでなく、(地にも行われますように。)
実践できる自分自身であるように、(わたしたちの日ごとの食物を、)
虚飾ではなく(きょうもお与えください。)
誰に何が必要であるかを知る努力をする自分自身であるように、(わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、)
失敗を笑わず、(わたしたちの負債をもおゆるしください。)
失敗を認めて反省する自分自身であるように、(わたしたちを試みに会わせないで、)
しかし失敗を恐れず(悪しき者からお救いください。)
立ち向かえる自分自身でもあるように努めます。
つまり、祈りとは、誰かに聞いてもらうようなものではなくて、自己啓発の手段なんだよ、と言っているわけです。カトリックや正教会は、そのことを(少し)理解しているので、信者が勝手に考えて祈りを行う、という習慣が無いわけです。プロテスタントは、特に頭の悪そうな牧師ですが、長いほうが値打ちが上がると思ってか、同じようなことを何度もダラダラと言い続けていますよね。まさに「異邦人のように、くどくどと」祈っているわけです。しかし、実際にはカトリックや正教会も似たようなものです。「ロザリオ」というものがありますが、あれも「異邦人のように、くどくどと」でしょうね。本質的にはどの教会も祈りの意味を理解していないのです。
「あなたのためにお祈りします」というフレーズ、聞いたことありませんか? 聞いたこと、というより言ったことがあるでしょう。殆どの人はあるはずです。あれの本当の意味は、「私はあなたが大嫌いだ。神様があなたを、私にとって都合の良い人間に変えてくださるようにお願いしておきます。」という意味です。そして、言う方も言われるほうも、そのことを承知しているはずです。
クリスチャンにとって実質的な祈りとは、他のクリスチャンを傷つけるための道具にすぎません。これが祈りの実態です。